某週刊誌で「薬物使用疑惑」をかけられ、本人及び所属事務所は「事実無根」と全面否定、薬物検査を行って陰性であるとの結果も受け、これはいよいよ法廷での争いか、と思った矢先の出来事である。
…こういう騒動(記事)があるとこじつけ同然の状況証拠をでっち上げて「クロ」と主張するアホが必ずと言っていいほど出てくるのだがそれはひとまず置いておいて、本人発表のコメントに
「心から信頼していた友人に裏切られ複数の人達が仕掛けた罠に落ちてしまいました」
という一文がある。この「罠」というのが具体的に何を指しているのかも気になるが、自分はこの言葉を見た時
今将棋界で起きているあの騒動も実は「週刊文春が売り上げを伸ばすために仕掛けた罠」なのではないか
という思いが強くなった。
ここでいう「罠」というのは「放っておいても三浦九段に対する報道が出る可能性が高い」、という話。そもそも
それ自体が「ここ最近の三浦九段の行動(対局中に度々離席する)や活躍」「昨今の将棋ソフトの目覚ましい進化」などを基に綿密に(?)構築された週刊文春(が売り上げを稼ぐため)の作り話
であって、そして
のではないか、と(普通に考えたらそんな報道が出たら将棋界は天地がひっくり返るような騒ぎになるので「被害を最小限に食い止めよう」と何らかの「最善手」を打とうと考えても不思議ではない)。そして向こうが罠に落ちた事を確認した週刊文春はその騒動の裏を取る(ような)記事を出せば
となる。実際部数が伸びたのかどうかはわからないけど…
…随分飛躍した想像になるが、実際そういう前提で今回の騒動を読み解くと非常に納得がいくのである。
もしかしたら渡辺竜王も自分が「罠に落ちた」と思っているかも知れない。こんな想像はしたくはないが、時期はわからないが渡辺竜王は今回の騒動の責任を取って引退する、なんて言いだす可能性もあり得る。ただでさえ(?)渡辺竜王は永世竜王の資格を得てから「自分が棋士を引退する時期を考えるようになった」らしいので。
…結局「自分の考察」を述べてしまった(笑)。
何と言うか「言わずにいられなくなった」というのか…
そういう時は落語を聴いて笑うに限る、というわけで(…なんでそうなるねん)、桂文之助師匠の落語を聴くために大阪は高槻に行ってきた。以前も書いたけど当初はこの日(12月10日)は「順位戦解説会2016」が行われる予定だったが、諸事情?により中止順延。たまたま同日に同公演があったのでこちらに予定変更。この日が使用期間の初日となる青春18きっぷでのんびりと?大阪へ向かう。車内での時間をつぶすための本と(落語の)CDを用意して。
わざわざ書くことではないとは思うが、青春18きっぷは自動改札を通れないので駅員がいる改札を通らないといけないのだが、何故かこの日は自分の目の前でその改札に「切符をなくした」とか言ってその手続きで後ろをつっかえさせる客が多かった。
この日の演者は4人(以下敬称略で)。ちなみに当日券は普通に買えた(笑)。
桂そうば「必殺仕分人」
桂小春団治「日本の奇祭」
桂千朝「代書」
~中入り~
桂文之助「一文笛」
桂そうばは米朝~ざこばの弟子、桂小春団治(3代目)は春団治一門の噺家、桂千朝は米朝の弟子。…前回(9月の独演会)の時にも説明のために系図を調べたが、これを見ていると何だかサラブレッドのサイヤーライン(種牡馬の系図)を見ているようで面白かったりする。
前2つは演者の新作(創作)落語、代書(「代書屋」とも)は4代目米團治(米朝の師匠)が自身の経験を基に昭和12年頃に作った落語、一文笛は米朝が昭和34年頃に作った落語。古典落語と新作落語の境目は創作時期が「大正以前」「昭和以降」で分けられることが多い(らしい)ので、代書と一文笛もそれでいうと新作落語になるのだが、代書のほうは完成(初口演)から80年も経っている上に関東の方でも広く演じられているのでほとんど古典落語と言っても差し支えないように思う。あるいは今日となっては「大正以前」「昭和以降」という区切り方に無理(?)があるのかも知れない。
…そういう話は柄でないのでやめておくとして(笑)、代書は前半と後半に分けられるが、後半が演じられることはかなり珍しい。独演会会場で買った「THE 枝雀」のDVDに収録されている代書も前半部分(履歴書を書いてほしいとやって来た男とのやり取り)だけ。しかしこの日演じられた代書は後半部分も演じられた(自分は今回初めて聴いた)。後半にしか出てこない代書屋の名前「中濱賢三」は完全な楽屋ネタ(4代目米團治の本名)である。
一文笛は明治の初め頃を舞台とした腕利き(と言うのかなぁ)の「ちぼ(スリの別称、『秀』という名前になっていた)」が出てくる噺。
駄菓子屋で売っているおもちゃの笛(一文笛)を物欲しそうに見ているみすぼらしい格好の子供がいる。その駄菓子屋の婆が彼を見るなり「銭のない子はあっち行け」と言ったのを目撃して腹を立てた秀は笛を1本盗んでその子の懐に放り込む。
その子が懐に手を入れると買った覚えのない笛が入っている。不思議に思いつつもその笛を吹いてみると婆がそれを目ざとく見つけて「泥棒!」と言って親へ突き出す。その親は元士族で「泥棒するような奴はうちの子じゃない」と言って子供を放り出す。子供が泣いて叫んでも長屋の人が口をきいても話を聞かない。
そうこうしているうちにその子供は井戸に身を投げてしまう。長屋の人がすぐに気づいて助け出され一命はとりとめたものの寝たきりの状態になってしまう。その経緯を知って己の愚かさを恥じた秀は匕首を取り出すとそれで自分の右手の人差し指と高高指(中指)を切り落としてしまう。
芸能界、将棋界、この噺、といずれも「冤罪によって一人の人生が滅茶苦茶にされた」という共通点がある(前2つは「シロ」という前提で)。今のタイミングでこの噺が演じられたのは偶然にしては出来過ぎているように思った(演目は随分前から決まっていたので)。ただ決定的に違うのは『秀』は己の行為を恥じて自分を罰した、という点。
「奴等」にこの噺(『秀』の取った行動)を聞かせてやりたい、と思う。
「馬の耳に念仏」で終わる可能性は極めて高いでしょうけど…(笑)
…笑う為に落語を聴きに行ったはずなのに何だかいろいろと考えさせられた一日になってしまった(苦笑)。