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それって早い話「金儲けのための忖度」って事では。

詰将棋とは何ぞや?

第2回電王戦はプロ棋士(人間)の1勝3敗1分という結果で終わった。
この結果について公の場(HP、ブログ、ツイッターなども含める)で一言でも感想などを述べている人はおそらく日本全国に100万人以上はいると思う。
当然ながらその実数を調べたわけでもその全てを読んだわけでもないが(物理的に無理がある)、
自分がサイト上で見かけただけでも上(?)は「プロ棋士がコンピュータに負けた事からして信じられない」というのから下は「プロが1勝1分なら大健闘」(…何様?)というようなものまで様々。
将棋界の未来について偉そうに論評している人も珍しくない。
 
自分も「一愛棋家・DJカートン」として言いたい事がないわけではない
(ないどころかそれだけで本が1冊書けるかも知れない)。
しかし訪問者がほとんどいないブログ(…自虐)でそんな事を書いても誰も読まないだろうし(※1)、
そもそもそういう事はDJカートンの「本業」ではないので、ここでこの件には触れない事にする。
 
今回は同じ将棋でも「詰将棋」について書こうと思う。
例によって(?)文中敬称略、また個人で調べられる資料・情報には限界があるため、
史実と異なる場所があってもあまり目くじらを立てずにお読みいただきたい。
また、ナンプレと同様これ以上に詳しい&史実に近い内容を記したサイトがあるはずなので、
こちらは「トリビアに毛の生えたくらいのもの」くらいの気持ちでお読みいただけたら幸いである(笑)。
 


 
詰将棋とは簡単に言えば「相手の玉を詰ます事が目的のパズル」
…自分は詰将棋をパズルという区分でまとめていいのか、と疑問に思う事が多いのだが、
考えてみるとスポーツ新聞などに「頭の体操」などと銘打っているコーナーで詰将棋ナンプレが並んで載っている事が多いので、
「だったら詰将棋もパズルの一種ってことでいいや」
と自分を納得させる事にする(笑)。
 
普通の指し将棋(詰将棋と区別する意味でこう呼ぶ事が多いのでここでもこう呼称します)も最終目的は相手の玉を詰ます事だが、
詰将棋の場合「攻め方(相手玉を詰ましに行く側。反対は『玉方』)は必ず王手をかけないといけない」というルールがある(※2)。
他にも指し将棋にはない様々な制約がある中から相手玉を詰ますという「正解」を探し出すのが目的なので、
「やっぱり詰将棋もパズルの一種なんだな」
と自分を納得させる事にする(笑)。
ちなみにチェスにも「プロブレム」という同様のパズルがあるが(※3)、こちらは必ずチェック(王手)をしなければいけない、というルールではない。
 
詰将棋というものは一体いつできたのか。諸説あるようだが、
現存する最古の図式集(詰将棋の作品集はこう呼ぶのが一般的)が出版されたのが慶長年間(1596~1615)という事なので、一番少なく見積もっても今から400年前には詰将棋が存在した事になる。
ナンプレアメリカでその産声を上げてから今年でまだ34年、実に12倍の差である。
 
ちなみにその図式集は「象戯造物」といい、後に一世名人となる初代・大橋宗桂(1555-1634、※4)が著したものである。
「図式集」という形ではあるが内容は「詰め手筋集」的な色合いが強く(そのため詰め上がりで持ち駒が余る作品も多い)、例えば下図の局面で▲2四桂と打つ手筋もこの本に載っている(※5)。
イメージ 1
具体的にはこの桂馬を歩で取らせて2三の地点を開けることで、
続く▲4一馬に△2二玉と逃げた時に▲2三金の頭金を打てるようにしている
(この桂捨てを入れずに▲4一馬は△2二玉と逃げられた時に詰まない)。
 
初代宗桂が慶長17(西暦1612)年に一世名人(当時は世襲制で一度名乗ると死ぬまで名人だった)を名乗った後江戸幕府に図式集を献上したことで、
それ以降の名人および名人候補者が詰将棋100番(※6)を幕府に献上するのが慣例となる。
中でも七世名人・伊藤宗看(※7)が享保19(西暦1734)年に献上した将棋無双と、宗看の弟伊藤看寿(※8)が宝暦5(西暦1755)年に献上した「将棋図巧」の2作は難易度・趣向・芸術性の全てにおいて江戸時代における最高峰の詰将棋(図式集)と言われ、
「図巧、無双を全て解けたらプロ棋士になれる」
というのは将棋界の金言として有名である(※9)。
 
しかし、その慣例は八世名人である九代・大橋宗桂(※10)が天明6(西暦1786)年に献上したのを最後に途絶えてしまう。
その理由は後世の名人(候補者)が無双・図巧の完成度の高さを見て創作意欲をなくした、とか、
九世名人となった大橋宗英が「詰将棋なら桑原君仲(同時代の在野の棋士)でも作れる」と詰将棋の価値にケチをつけたから、などと言われるようだが、真相は不明である。
そしてそれと同時に詰将棋の発展は一時停滞してしまう。
なお、詰将棋献上は名人誕生400年記念の一環として2012年に十七世名人の資格を持つ谷川浩司九段(現在は原則として現役期間中は○世名人と名乗らない)が自らの図式集「月下推敲」を久能山東照宮の祭神・徳川家康の御前に奉納する、という形で実に226年ぶりに復活した。
 
詰将棋の人気(?)が復活するのは昭和に「将棋月報」(※11)で詰将棋を扱うようになってから。
以降詰将棋は独自の発展をしていき、1950年には専門誌「詰将棋パラダイス(通称詰パラ)」が創刊され、
同時期に全日本詰将棋連盟がその年に発表されたもっとも素晴らしい詰将棋を表彰する看寿賞」を制定する。
これは早い話「アカデミー賞」や「芥川賞」などと同じようなもので、詰将棋作家としては最高の栄誉である
なお看寿賞は毎年詰パラで発表されるが、詰パラで発表された作品でなくても受賞資格はある。
 
後に、詰将棋を語る上では避けて通れない(?)将棋図巧の中から特に有名なラスト3番を掲載する。イメージ 2
盤面には玉が1枚だけ、文字通り「裸の王様」である。
読み方は「はだかぎょく」「らぎょく」の2種類があるがどちらでも良いようである。
 
…次の作品は詰キスト(詰将棋愛好家の事)でない人でもご存知の方がいるかも知れない。イメージ 3
盤面には攻め方の玉以外の39枚の駒が配置されている(「裸玉」のすぐ後にこの作品を置いたのもなかなか巧妙と言える)が、それらが手順を進めるうちに文字通り「煙のように」消えていき、
最後詰め上がる時には下図のように玉と攻め方の駒2枚の3枚だけになってしまうイメージ 4
何故「詰キストでない人~」と書いたかと言えば、
つい先日(2013年3月)の「将棋フォーカス」の放送でこの作品が紹介されたからである。
 
そしてトリを飾るのはこの作品。
イメージ 5
総手数611手詰めという超大作。当然その間攻め方はずっと王手の連続(合計306回王手をする)。
なお、図中の「全」は成銀、「圭」は成桂のことである(ちなみに成香は「杏」、※12)。
どうしてこの作品が611手という手数になるのか、はここでは書ききれないので割愛させていただく。
 
これらと同じ条件の作品(寿の場合は611手を超える作品)は後世多くの作家が創作に挑戦したがことごとく失敗し、創作は不可能ではないかと思われた時期もあったが、
裸玉2号は1942年に、煙詰2号は1953年に、寿超えは1955年に「新扇詰」という873手詰の作品が発表されている。
この3つの趣向作品はその後続々と発表され、中でも現在の最長手数記録は橋本孝治氏が発表した「ミクロコスモス」の1525手詰め(※13)。
寿の611手という数字は現在では16位タイくらいまで順位が下がってしまった(その大半は平成に入ってから発表されている)が、
だからと言って寿(というより将棋図巧の作品)の価値が貶められるわけではなく、
611手詰めを超える作品を指す「寿超え」いう言葉が今でも存在し、詰将棋作家としての一つの指標になっている。
 


 
…小難しい表現が多くなってしまったが、以上が詰将棋の略歴である。
詰将棋にもナンプレのように特殊ルールを付随した「フェアリー詰将棋」なんてのもあるが、
そちらは(今のところ)専門外なので、ここでは取り扱いません。

(※1)…だからと言って調子に乗って偉そうな事を書きまくると
「そういう時に限って『誰か』が見ている(炎上のきっかけになる)ので、
ブログなどを書く人は十分気をつけないといけない(…と自分を戒めているつもり)。
 
(※2)…TV番組やトークショーなどで詰将棋が出題された時に聞き手(女流棋士が多い)が
「先生、ヒントは?」
と聞くと、出題した棋士
「ヒントは王手を連続でかけます」とベタなボケをかますのは定番と言える(笑)。
 
(※3)…「詰パラ」のようにプロブレムを専門に扱った機関紙というのもある。
一度見た事があるが、日本で作っているものではないので内容は全て英語
まぁそれは仕方ないとしても、せめて作者の国籍くらいは書いておいてほしいな、と思った。
ちなみに最古のプロブレムは西暦840年に作られたものらしい。
 
(※4)…宗桂という名は織田信長に「桂馬の使い方が巧い」と褒められた事で「宗慶」から改名した、
という説が有名だが、真偽の程は定かではない。
ちなみに将棋家元としての大橋家の歴代当主は大半が家督を継ぐときに「宗桂」という名も継いでおり、
うち初代を含めて3人が「名人」になっている。
 
(※5)…森下卓九段がNHKの将棋講座(2008年放送)でこの問題を解説したときにそう述べている。
 
(※6)…この数字も初代宗桂(が献上した作品数)に倣っている。
明治以降の詰将棋作家の図式集もこれに倣って1冊あたりの作品数は100番であることが多い
(例えば内藤國雄九段の「図式百番」、谷川浩司九段の「月下推敲」など)。
 
(※7)…現在の詰将棋のルール、例えば「玉方は最長手順になるように逃げる」「持ち駒を余らせてはいけない」などを確立したのは宗看である。
 
(※8)…本文中にある「看寿賞」はこの人の名から取っている。
ちなみにこの人は存命中に名人にはなっていない(死後に名人を追贈されている)。
 
(※9)…最初に言ったのは故・米長邦雄永世棋聖だと言われている。
言葉だけを聞くと「全200問を解ける人にはプロになれる実力がある」という意味に取れるが、羽生善治三冠(の著書)によれば
「その200問を何年かけてでも解こうという将棋に対する情熱・熱意を持ち続けられるからプロになれる
だそうである(米長永世棋聖がどういう意味で言ったのかは今となっては知る由もない)。
ちなみに将棋無双、将棋図巧は後世の俗称で、前者は「象戯作物」、後者は「象戯百番奇巧図式」というのが正式名称である。
 
(※10)…「9人目の大橋宗桂」という意味ではなく、「大橋家九代当主・大橋宗桂」という意味。
 
(※11)…大正12年から昭和19年まで発行された将棋専門誌。
変わったところではこの中で「三人将棋」というものを紹介していたらしい。
 
(※12)…専門紙(誌)だったら専用のパソコンで「外字」を作るなりして2文字表記にできるが、普通の人が同様のことをするのは大変なので
最近はコンピュータ将棋がこの3種類の駒を処理する為に当てはめられた文字を図面表記の際にも援用する事が多い。
 
(※13)…1986年に発表された時は1519手詰め。後に同作品を改良して1995年に6手延長したものが現在の記録である。
当然のことながら(?)この作品は看寿賞を受賞している。