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昨今流行っている「ジェンダーレス」とかいう言葉を使いたがる人は「差別」と「区別」の違いがわかっていないんじゃないか? と思う。

期待の力士を見ていて考える「一騎打ち」の概念

大相撲九州場所にて活躍し、来場所の新入幕が濃厚視されている【*1大の里関二所ノ関部屋)について、デビューした当初から自分は許褚に似てるなぁ」と思って見てきた。

 

許褚(きょちょ、字は仲康)は三国志の時代に出てくる武将で長年曹操に(その死後は曹丕曹叡にも)仕えていた。史料によると「身長8尺(184cmくらい)、胴回りが10囲(120cmくらい)という巨漢だったようで【*2】、武勇も人並外れていたという。実際にどういう顔だったかなんてのはわかるわけがない(メディアによっても全然違う)が、「真・三國無双」シリーズの「人懐っこい?」許褚と比べるとどことなく似ているような気がする。ついでに言うと体格も(力士なので)そんなに相違があるとは思えないし(ちなみに大の里関の身長は公称193cm)、武勇(≒相撲の強さ)も人並み以上に優れていそうである。…誰も彼を「許褚に似ている」と言わないのはどちらか(世間か自分か)の感覚がおかしいのだろうか。

その許褚の武勇を物語るエピソードは少なくない。中でも特筆すべきは曹操馬超が戦った「潼関(どうかん)の戦い」馬超軍の追撃を受けた曹操を舟に乗せると左手で馬の鞍を持って敵の矢を防ぎ、右手で舟を漕ぎながら舟によじ登ろうとする敵兵を斬り払って曹操を対岸へ逃がした(正史にも記述がある)というからある意味化け物である。その後もこの戦いでは多くの敵兵を打ち倒し、馬超とは半日にわたる(途中から許褚が上半身裸になって)一騎打ちを演じたりもしている。…のだが、どうやらこの馬超との一騎打ちというのは演義の創作のようである(後に張飛との一騎打ちで打ち負かされて兵糧を奪われる、というのも同様)。

そもそも正史だと記録に残っている一騎打ちというのは「孫策vs太史慈」「関羽vs顔良くらいしか見当たらない*3】。一騎打ちというのはある意味三国志の「華」のような場面だが、正史を読むと実際はほとんど行われていなかったようにも見える。呂布なんか一騎打ちどころか「1vs2典韋・許褚)とか「1vs3張飛関羽劉備ハンデ戦(?)で戦うシーンが有名だがあれも全部フィクション。そもそも「反董卓連合軍との戦い」が正史と演義とで相当差異があり、正史だと呂布はこの戦いではほとんど出番がなく、関羽張飛の活躍もない華雄を討ったのは正史だと孫堅)…という以前にそもそも彼等は連合軍に参加すらしていなかった(その頃の劉備公孫瓚の伝手を頼って平原国相の地位【*4】に就いていた)ようである。

また前述の「潼関の戦い」についても戦場での邂逅があったわけではなく、曹操馬超が対話をしている時に曹操の傍らで許褚がずっとにらみを利かせていた(馬超がひるんでいるようだった)という。両者の一騎打ちはこのシーンを面白そうに改編したもの、と見るのが妥当だろう。演義での許褚は初登場時に典韋と一騎打ちをしている(それを見た曹操は「あれほどの男、殺すには惜しい」と罠を仕掛けて捕らえ、配下にしている)が、正史だと「自警団(みたいなもの)の長を務めていたが、曹操が淮南・汝南を支配した時に帰順した」となっており、やはり一騎打ちをした形跡は見られない。一方で正史だと「片手で牛の尻尾を掴んで引きずった」との記述もあるが、それはそれで本当にそんな事ができたのかは疑問が残る(一口に牛と言ってもサイズは様々だろうから日本人が想像するような乳牛肉牛よりも小さい牛だったら本当に引きずったのかも知れない。…それでも常人離れした怪力なのは間違いないが)。

 

しかし、正史に記述がなかったからと言って軽々に「当時は一騎打ちがレアだった」と決めつけるのも正しい考察とは言えない。実際のところは「単に記録に残っていない」だけで、案外結構な数の一騎打ち(またはそれに近いもの)があったのではないだろうか。

その根拠(?)として、当時の武将には「自ら陣頭に立って突撃する人が少なくなかった」という事。いつの時代でも大将が最後尾でふんぞり返っているよりも最前線(に近い場所)にいる方が兵が奮い立つ、というのがあるし、正史でもそういう描写は結構ある(もっとも孫堅などはそれが原因で討死した可能性もあるのだが)。また当時の兵士(つまり漢民族の平均身長は当時の食糧事情とか黄巾の乱のような民衆蜂起が起きるくらいだから「良かった」わけがないからかなり低かった可能性が高く*5そんな中で集団の小競り合いをするくらいなら(それこそ「無双シリーズ」のように)デカい大将がゴツい武器を振り回しながら突進する方が「効率的」だった(よほど訓練された兵士でもなければ恐れをなして逃げ出す)ように思う。現代で喩えるなら「小学校高学年くらいの集団に向かってブルーザー・ブロディがチェーンを振り回しながら突進する」ようなものだろうか(喩えが古すぎるわ)。…現代でそんな事をやったらこの上なくシュールな図式になってしまうが、当時の戦はそんなのが多かったと思われる【*6】。そして双方の大将が先頭に立って武器を振り回していたら当然大将同士の邂逅(つまり一騎打ち)も頻繁に起きていただろう。前述の孫策vs太史慈」「関羽vs顔良」もその流れの中で発生したものっぽく、少なくとも「我は○○だ、いざ尋常に勝負せよ」と最初から一騎打ちに持ち込もうとした戦いはほとんどなかったのではなかろうか。ぶっちゃけそうやって名乗り出てきた相手には「皆で矢を射かける」方が合理的だし【*7】。

 

そもそも正史だと(他人の『伝』の中に)一瞬名前が出てくるだけでその後の動向などは不明」という人物が多く(そういう人は生没年や死因だけでなく「字も不明」というのがほとんど)そういう武将が記録に残っていない一騎打ちをしていた可能性は普通にあり得る。例えば袁術配下の武将紀霊もその一人で演義だと関羽と一騎打ちして互角に渡り合った」となっている(けど後に張飛に瞬殺されているので強さがイマイチわからない)が、正史だと劉備を倒すために出兵した、くらいの記述しかない【*8】。劉備が蜀を取る過程で配下になった厳顔・呉蘭雷銅も同様で、厳顔は張飛に捕らえられた時のやり取り(毅然とした態度に張飛が感服した)しか残っておらず【*9】、後2人は漢中攻略戦で名前が出てきたかと思うといきなり戦死しており、出自が全くもってわからない(「元劉璋配下」であったかどうかの記述からしてない)。馬超の従兄弟の馬岱諸葛亮の死後に魏延を討った」としか書かれていないし、張飛の子の張苞に至っては「長子苞、早夭」と漢字5文字(長男の張苞は早くに死んだ)の記述があるのみ。ハッキリしているのは張遵という息子(蜀が滅ぶ際に戦死)がいたので「少なくともそれくらいの年までは生きていた」事くらい。これらの武将(三國志シリーズだといずれも武力が高めの設定になっている)が正史の記述にないところで一騎打ちをしていた可能性もないとは言えない*10

 

ただその一方で三国が台頭する頃には「兵の訓練度も上がってきている*11だろうから、「ゴツイ大将が陣頭で強そうな武器を振り回す」という戦いも減っていった可能性がある。そうなると「やはり一騎打ちは(特に赤壁の戦い以降は)レアだった」という結論にもなる(正史に記載がある一騎打ちも三国が台頭する前の話だし)。

 

…結局のところ「結論は出ない」話になってしまった。

*1:気合の入った相撲ファンなら御存知だろうが、来場所の番付は本場所終了から3日以内に実施される「番付編成会議」で決まるが一部の「事前準備が必要な番付(横綱大関十両。後2つは「再昇進」も含む)」以外は正式発表までは「家族に話すのもNG」なトップシークレット(だと行司がインタビューで答えていた)なので部外者としては999.999‰確実な事象でも「決定」と書くのはヤバい(あらぬ疑いをかけられる可能性がある)。…のだが、実際は一部のマスコミは事前に知っているという(正式な番付発表日時とほぼ同時に報道しているので。さすがに「フライング発表」したら問題になりそうだが)。

*2:ただ「横山三国志」だと許褚は比較的スリムな(同僚の典韋の方が恰幅がいい)デザインになっている。同じく肥満体だったと言われる董卓(誰かが死体のヘソに松明を挿したら数日間燃え続けた、なんて逸話がある)についても所謂中肉中背なスタイルになっており、「横山光輝はデブを書くのが苦手(嫌い)だった?」なんて邪推をしたくなる。

*3:演義だと文醜関羽が一騎打ちで倒した事になっているがそちらはフィクション(どうやら顔良を倒した時点で関羽曹操の陣を去っていたらしい)。

*4:中国各地の「郡」の中で『王(皇帝の一族)』が統治する郡は「国」と呼び、その『王』の代わりに政務などを行う人を『相』と呼んだ(王がいない「郡」を統治したのが「太守」)。つまり「太守」と「相」は事実上同じ(現代日本だと都道府県の知事みたいな)役職である。

*5:日本の戦国時代の男性平均身長が157cmくらいだったと言うので、おそらくそれ以下だったと思われる。

*6:呂布の容姿は一説には身長9尺(2m以上)と言われているが、呂布の出身地は今で言う内モンゴル自治区にあたるので「漢民族以外(モンゴル系)の血が濃く入っていた」可能性が高く、それ故規格外のデカさ&強さにも説得力があると言える(もしかしたら常軌を逸したような裏切り行為も遊牧民の血が為せる業?だったのかも知れない)。

*7:演義だと張魯麾下にいた頃の馬超張飛を挑発して一騎打ちを挑んでいる(それを利用して「諸葛亮の策で」馬超を配下にしている)が、正史だと張飛との一騎打ちも諸葛亮の策もないまま馬超が自ら劉備に帰順している。

*8:両者の間に呂布が入り「私の射た矢があそこに立てた戟に当たったら『天意』だと思って戦いをやめよ」と仲裁しようとした(そして見事矢を当てて休戦させた)シーン。如何にも作り話の匂いしかしないエピソードだが正史や裴注にも記述がある。

*9:「老将」のイメージが強い彼だが正史にはそのような記載はなく(おそらくは「劉焉(劉璋の父)の時代から仕えていた」事から、呉三代に仕えた程普や黄蓋のような古老の宿将、というイメージなのかも知れない)、後に黄忠と組んで戦ったというのもフィクション。

*10:馬岱は「魏延を討った」事から相応の武勇を持ち合わせていそうだし、少なくともその時期まで(馬超と一緒に劉備に下ったとしたら「蜀の武将として最低でも20年くらい」)は生きていたわけだから一騎打ちをする機会は何度もあったように思われる。

*11:別の見方をするなら「兵の鍛錬を怠るような国は生き残っていない」。