前回の続き。
2.「泣いて馬謖を斬った」本当の理由は…?
「泣いて馬謖を斬る」は三国志に詳しくない人でも聞いた事があるであろう。「優秀な人であっても私情に駆られる事無く罰する」事を意味するが、実際のところはどうだったのか…?
北伐の戦略上の重要拠点である「街亭」。ここを落とされると作戦そのものが瓦解するとあって諸将は歴戦の人物を守備に就かせる事を進言したが、諸葛亮が抜擢したのは日頃から目にかけていた馬謖。それまで大した実績がなかった馬謖に「箔」を付けさせたかったのかも知れない(まぁ要は「私情」)。もっとも守備といっても街亭は道が狭く(大軍をもってしても一気に攻め込めない)、「街道を封鎖して敵を通さないようにすればいいだけの『簡単な仕事』」だったはずなのだが…
しかし馬謖はその『簡単な仕事』すら全うできなかった。出発前に諸葛亮からも「街道を封鎖して敵を通すな。まかり間違っても山頂などに陣取ってはならぬ」と念押しされ、更に念押しして経験豊富な王平を副将として随行させたにも関わらず馬謖のアホは街道から離れた山頂に陣取ってしまう(王平は忠告を無視されたので手勢だけで街道を押さえて「やれるだけの事をやった」)。攻め込んできた魏の張郃【*1】も訝しがったが、いざ攻めてみるとあっさりと陥落。山頂に陣取っていた主力は水源を断たれた事で戦意喪失、その大半が戦死ないし降伏した。
…とまぁ、このあたりは正史でも演義でも(魏の大将以外は)ほとんど同じ、戦後に馬謖を処刑したのも同じだが、正史にはちょっと気になる文言がある。この戦後処理で
向朗(しょうろう、馬謖と仲が良かった)は馬謖の逃亡を助けた咎で免職となった
「馬謖の逃亡」という文言が気になる。他にも
・この時馬謖の参軍として随行していた陳寿の父【*2】は髠刑(読みは「こんけい」、一言で言えば「剃髪」。当時の中国ではかなり重い刑であった)に処せられている
・一方で寡兵ながら味方の全面崩壊を阻止した王平は昇進に与っている
・この数年後の北伐で兵糧担当の李厳は輸送に失敗して蜀軍を撤退に至らしめている。しかもこの時の李厳は自分の失敗を諸葛亮に押し付けるための「自作自演」をしている【*3】が、李厳は死罪にはならず「官職を剥奪の上追放」で終わっている【*4】
もちろん命令に背いて多くの戦死者・降伏者を出した罪は重いが、行為の「悪質さ」でいったら李厳のそれの方が数段悪質である(一歩間違えば数万単位の兵が餓死していたのだから)。それなのに李厳(当初は死刑にするつもりだったようだ)は死刑にならず馬謖だけが死刑、となると「馬謖は李厳とは比較にならない罪を犯した」可能性がある。…そこでこんな仮説が成り立つかも知れない。
馬謖が処刑されたのは「処罰または冷遇を恐れて呉への亡命を企てたから」
つまり「馬謖の逃亡」は「亡命」を指している、という仮説【*5】。彼を推した諸葛亮も当初は降格や追放とかで済ませようとしていたが「亡命を企てた」とあってはさすがに黙っていられなかった(今後真似るやつが必ず出てくる、と思った)のかも知れない。
…勿論仮説にすぎない。一口に「逃亡」といっても解釈はいろいろでき、「麓を囲まれ進退窮まった馬謖は兵を見捨てて我先に『逃亡(=職務放棄)』した」かもしれないし、「投獄されていた馬謖が『逃亡(=脱獄)』しようとした」かも知れない。一方で演義は蜀(というか諸葛亮)を美化する傾向があるので、それを差し引くと案外本当に「亡命未遂」があったのかも知れない。もしこれが事実だったら馬良【*6】は地下で何を思ったであろうか…【*7】
ちなみにこの時奮戦した王平は諸葛亮の死後も魏延を討ったり対魏防衛戦で活躍しているが、正史によると彼は文字の読み書きがほとんどできず「知っている文字は10字に満たなかった【*8】」という。そのため馬謖は王平の事を思いっきり見下していた(ので彼の忠告を聞かずに山頂に陣取って惨敗した)可能性がある【*9】。現代風に喩えるなら
高学歴を鼻にかけて低学歴の人間を見下す(そして独断専行で会社に大損害を与える)ロクデナシのクズ
と言ったところだろうか。…こういう輩は古今東西問わず絶滅しないものらしい。しかし王平は読み書きができなくともその発言は道理に適っていたというし、他人の話や読んでもらった書の内容もちゃんと理解できていたというので、馬謖のような所謂「浅学の徒」と比べたらどちらが有益なのかは論ずるまでもあるまい。なお、演義ではこの設定がカットされているが、最近のメディアではこの設定を採用している(それを「馬謖が独断専行に走った理由」としている)事が多い。
長坂の戦い。劉備は江夏に逃れようとするがこの時民も同行してきたため【*10】その行軍は遅々として進まず、直に曹操に追いつかれて散々に蹴散らされる。そんな中張飛は20騎(正史の記述)を率いて長坂橋(後世の人が便宜上そう名付けたものらしい)で曹操軍を食い止める、という出来事は正史にも演義にもあるが、正史の記述は少しおかしい。
演義では「橋の上で曹操軍を退けて」その後橋を落としているが、正史では「先に橋を落としている」。もし手前(曹操軍が迫ってくる側)から橋を落としたら張飛自身が帰れなくなるし、向こう側から落としたとなると「曹操軍が川を渡る手段がない」ので『かかってこいや!』と一喝されたところで「どーせーっちゅうねん」という話になる。そういう意味では演義の設定の方がまだ理に適ってはいるが【*11】、6桁に及ぶ敵兵を1人で退けたというのも大分無理がある(「蜀を美化する」演義だから仕方ない面もあるが)ので実際どうだったのかは今一つ想像がつかない。
こういう考察ができるあたり、21世紀になってもいろいろな「三国志」が書かれるのも何となく納得ができる。そのうち「独自の解釈による三国志を書く事」がブームになったり…はしないか、さすがに(笑)。
*1:演義では司馬懿が攻めてきているがフィクション(諸葛亮が司馬懿を警戒して「策を持って司馬懿の兵権を失わせた」のも同様。ただ正史でも司馬懿は蜀に「出戻り」しようとした孟達の動きを察してこれを討っている)。
*2:演義では「陳式」という名前になっているが、この陳式は230年に死亡している(北伐で「命令違反で損害を出した」ために処刑されている)のでどうやったら「233年生まれ」の陳寿の父親になれるのだろう。正史にも「陳式」は登場するが陳寿の父という記載はなく、それ以外の経歴も史料が少ない。それどころか史料によっては「陳戒」という名前になっている。…もしかしたら「陳式と陳戒は親子」で「その子が陳寿」という可能性もあるが個人的な想像でしかない(笑)。
*3:最初は「悪天候で輸送ができない」と言っておきながら諸葛亮が漢中に帰還すると「輸送は滞りなく行っていた(のに何故撤退されたのか?)」と言い、後主(劉禅)には「撤退は敵をおびき寄せるための策」と説明したという。
*4:この少し前に兵糧輸送の職務怠慢で処刑されそうになった「苟安」は架空の人物。同時期に「句安」(読みはどちらも「こうあん」)という似た名前の人が蜀に仕えていたがそれとは別の人物。
*5:亡命先を呉としたのは「魏に亡命するのだったらわざわざ漢中まで帰る必要がなかった」し、それ以上に「無能っぷりを目の当たりにした魏が彼を重用するとは思えない」という理由による。
*6:馬謖の兄。5人兄弟の四男で(長男としているメディアもあるが999‰四男)、若い頃から眉毛に白髪があったので「白眉」と渾名される。「馬氏の五常(5人兄弟はいずれも字が『○常』であった)、白眉もっとも良し」と称され、「同類の中で最も優れたもの」を指す「白眉」という単語の語源となっている。なお馬良の最期は演義だと「南中討伐の直前に病死」であるが正史では「夷陵の戦いで戦死」と異なっている。
*7:この数年前に関羽を見捨てて呉に逃亡した麋芳の兄麋竺(劉備が徐州にいた頃からの古参の人物で、妹が劉備の夫人となっているので言わば「義兄弟」である)は弟の逃亡を聞いて自責の念にかられて病に臥せってしまった(その1年後くらいに死去)。
*8:一説では「自分の名前」と「五常(儒教の教え)」、つまり「王」「平」「子」「均」「仁」「義」「礼」「智」「信」だけ。…まるで阪田三吉みたいなエピソードである。
*9:もともと王平は魏の武将だったが、魏でも「同じような理由で」多くの武将に見下されていて、中でも徐晃は王平の忠告を無視して惨敗した、という点まで馬謖と似ている。
*10:演義では「民が劉備を慕って」となっているが、正史では「曹操の前科(父の復讐で徐州で攻め込んだ時に無辜の民を大量虐殺している)を恐れて」となっている。