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それって早い話「金儲けのための忖度」って事では。

三国志を正史の視点で・3

英雄を批判する人は人格的に劣悪である

 

…そんな風に決めつけている人間をやたらと見かけるように思う。例えば藤井聡太を批判した芸能人、大谷翔平を評価しない評論家、佐々木朗希の態度に腹を立てて詰め寄った球審*1】、その他… 今の世の中そういう人は一人残らずネット上で悪人にされていると言っても過言ではない。

…自分は「アホの極み」だと思った。そしてそれ以上に(思想的に)非常に危険な存在」だと思う。勿論そういう人をネットで叩いている(悪人と決めつけている)輩が。自分が好きなもの(人)を批判する人間に腹が立つのは分からなくもないが、何故「人格的に劣悪である」と決めつけられるのか、その思考回路が全く理解できない。理解しようと思ったら「IQを30くらい下げないといけない」ような気もしてしまう。

 

そういう輩(考え)はネット社会の副産物、と思われそうだが、同じように考える人は昔からいたようである。

三国志に出てくる武将、魏延(字は文長)。…おそらく彼に対し「いいイメージ」を持っている人は少ない、それこそ「(呂布と同レベルで)簡単に裏切る人」というイメージを持っている人が多そうである【*2】。真・三國無双シリーズでも「『てにをは』を使えない(例えば「我…攻メル!」みたいなセリフを言う)変な人」というおかしなキャラが定着してしまっている。

答えから言ってしまうと世間に知られている魏延のキャラの「9割は演義の創作」。諸葛亮の死後まもなくのゴタゴタで馬岱に斬られた、というのは事実だが【*3】、正史で見る限りあれは「魏延の謀反」というより「楊儀との権力争い・個人的確執」でしかないと思う。

そもそも演義魏延は登場する時から扱いがおかしい。長沙の韓玄の下に仕えていたが(正史ではいつから劉備に仕えたのか不明)、劉備の南郡平定の際に韓玄の暴政(普段から悪政を敷いていた上に黄忠を「内通していると決めつけて」処刑しようとした)に耐えかねて彼を殺して降伏した、となっている【*4】。

ところがこの時諸葛亮魏延に対し「簡単に主君を殺すような奴は信用できないから今ここで処刑すべき」劉備に進言する(が劉備はそれを採用せず魏延を登用した)。…演義だとこの直前に武陵太守の金旋を殺して降伏してきた鞏志(きょうし)という人物がいるが【*5】、何故かこちらには処刑を進言していない。またこの前後でも「主君を殺して降伏してきた人」は幾人かいるが、諸葛亮が処刑を進言したのは魏延ただ一人。…何故?

他にも第5次北伐では「独断で兵を動かして損害を出した」とか【*6】、「彼を囮として司馬懿もろとも焼き殺そうとした」とか、諸葛亮の延命の祈祷中にその祭壇を壊した」とか(勿論どちらも演義の創作)、最期にしても諸葛亮の死を待っていたかのように反乱を起こした(しかも諸葛亮はそれを確信していて彼を謀殺するための策まで用意していた)ように描かれ、まぁとにかく扱いが酷い。しかも「酷い扱い」は後世にも受け継がれ(?)、有名な武将の墓は今でも大半が残っている一方で魏延の墓は「破壊された」上に「今はその上を鉄道が走っている」とも言われている。

確かに魏延は人格者ではなかったかも知れないが、その武勇は五虎大将軍*7にも匹敵するものだったし、多くの功績によって昇進もしている*8】。

 

…では何故魏延はこれほどまでに酷い扱いを受けるのか? 考えられる答えは1つしかない。

魏延は第1次北伐の際、諸葛亮子午谷(魏と蜀の間に聳える「秦嶺山脈」を抜ける街道の内、漢中→長安を最短距離で目指せるルート)を通って長安へ迫る作戦を提案したが却下された*9】。この時魏延

諸葛亮が臆病なせいで自分の能力が発揮できない

と周囲に漏らした、と伝えられる。

 

…ここまで書けば勘のいい人なら気づくであろう。孔明様(笑)を崇拝する羅貫中にしてみたらこのような発言をする魏延の事は

孔明様に楯突く痴れ者

と思ったに違いない。つまり

「痴れ者」だから「人格的に劣悪であったに決まっている」…という「ネトウヨ的思考(?)」で今日に知れ渡るおかしな魏延像ができあがった

のである(異論は認めない)。これが諸葛亮と所属が異なる曹操とか周瑜とかならともかく(この2人も羅貫中によって「人格を捻じ曲げられた被害者」の代表格と言える)、同じ陣営に属する魏延がこうも「人格的に劣悪だった」かのように描かれるのだからどう考えても羅貫中の「私情」以外の何物でもあるまい*10

じゃあその魏延を除く立役者(?)となった楊儀(字は威公)は人格者だった(あるいは「人格者として描かれた」)のかと言うと…さにあらず。正史によると事務処理能力に優れていた(ので諸葛亮の補佐役として北伐に随行していた)「狭量でプライドが高かった」とある(どことなく馬謖に似たものがあるような…?)。そして何より、魏延の死後魏延の首に向かって

「庸奴(アホとか間抜けとかの意味)め、もう一度悪さができるものならやってみろ!」

と叫ぶとその首を足で踏みつけた、とある(演義ではカットされている)ので、どう考えても楊儀の方が「人格的に劣悪」だった、としか思えない。またその最期も諸葛亮の死後閑職に回された」事に不満を抱き*11】、ついには「こんな事なら魏に亡命していればよかった」とまで漏らした事が劉禅の耳に入ったことで「平民に落とされた上で流罪(その後自殺)となっている。演義でも正史とほぼ同じ結末であり【*12】、諸葛亮の遺言に不満を漏らした」事で羅貫中も擁護(?)しなかったようだ【*13】。

 

…そんなわけで「アホ」で「危険な」考えをしていた人は少なくとも500年前には存在していた事になる。もし魏延の子孫が現存していたら今頃筆舌に尽くせないような仕打ちを受けていたかも知れない。だから「英雄を批判する人は人格的に劣悪である」と決めつけるのは「危険な思想」なのである。なお幸いにして?魏延の一族は前述の「内乱」の時に族滅されたようなので魏延の子孫は現存していない」らしいが【*14】。

*1:個人的には「あれをするくらいなら即座に『審判への侮辱行為で退場』を宣告すべきだった」と思ったが…

*2:そのせいか「三國志」シリーズでは「忠誠度100でも簡単に裏切る」というマスクデータを持っている事すらある。

*3:ただし正史では「馬岱に関する記述がこれしかない(馬岱の字が不明なのはそれが理由)」し、諸葛亮が生前に仕込んだ「私を倒せる者があるか」と3回叫ばせるのももちろんフィクション。

*4:正史では南郡平定自体が「結果だけ書いて終わり」とそっけない。一応それでは「韓玄は降伏した」となっている。また魏に仕えた韓浩の兄という設定も演義特有のもの。

*5:正史だと「金旋は討死」とあるだけ。

*6:正史だと「諸葛亮の指示で動いたが司馬懿に先手を打たれていた」と扱いが正反対。

*7:実在した官職ではなく、おそらくは「関羽張飛趙雲黄忠馬超の5人が1つの伝となっている」事から創作された称号。正史では趙雲を除く4人が「前後左右将軍」に任命されている。なお演義だと五虎大将軍就任に際し関羽が「(新参者の)黄忠馬超と同格の官職などいらん」とごねているが、実は正史でも同様にごねている。

*8:「前軍師」という(武闘派だった魏延の)イメージが全くできないような官職にも就いている。

*9:実際は「孟達が『出戻り』してきたら(前回の記事を参照)彼にそのルートを任せる予定だった」がこの事は言わば「トップシークレット」だったのでほとんどの人間が(魏延も)知らなかった、という可能性もある。

*10:そう考えると韓玄も「魏延を人格的劣悪者に仕立て上げるための道具」にされた「被害者」と言える(前述のように「正史では降伏」しているので)。

*11:生前の諸葛亮楊儀の性格を問題視してそのように遺言していた、と言われる。

*12:正史では「流刑先から他人を過激な言葉で誹謗する手紙を宮中に送り続けた」とある。…魏延が人格者に見えてしまいそうだ。

*13:楊儀がこのような末路を迎えた事も「馬謖も亡命を企図した(ので処刑された)」という可能性を後押ししている…というのはさすがに都合が良すぎるか? ちなみに演義では「劉禅楊儀を処刑しようとした」というシーンが追加されている。

*14:ちなみに「関羽の子孫」も既に地球上には存在しない(関羽に斬られた龐徳の子である龐会が「父の恨み」と称して一族を殺し尽くした)と言われている。