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それって早い話「金儲けのための忖度」って事では。

キラキラネームが生まれる理由を考えたら三国志の時代に飛んでしまった

今年の6月に成立した改正戸籍法、そのネームプレートの下には「キラキラネーム規制法」と書かれているらしい。

こういう法ができる事自体が日本人の知性かモラル(多分両方)が衰えている証左なのかと思うのだが【*1】、そのキラキラネームが出てくる理由の一つに「同じ名前はクラスに2人もいらない」という理由でのいじめや嫌がらせ(20世紀の時点で結構あったそうだ)が原因ではないか、という気がしなくもない。つまりその手の「傷」を負った人が人の親となった時に「絶対に他人と重複しない名前」を考えて、熟考しているうちに「後遺症」で思考が変な方向に飛んでしまって結果としてキラキラネームになってしまった、という可能性は意外とあるかも知れない。…まぁキラキラネームの大半は親のIQの低さ故の産物なのかも知れないが、かたや「名前が被る」という理由でいじめを受けたと思えば今度は「珍しい名前」という理由でいじめを受ける… 一体この国はどうなっているのだろうか?

その手の(名前を口実にした)いじめ、嫌がらせはあって小学校低学年まで、という印象だが(さすがに3年生くらいにもなってそういう事を言う奴は想像がしにくい)、大人になってもその手の難癖をつける人というのはいるらしい。

 

三国志に登場する呉の重臣魯粛主の孫権劉備との同盟を提案し、自らその交渉役となって劉備の陣営に赴く。その諸葛亮の活躍もあって同盟は成立し、呉は曹操の大軍を赤壁で討ち果たす。その後両国の間には諍いも起きる事があったがそんな中でも魯粛劉備との友好関係を保つよう孫権に進言し続ける。しかし彼は217年に40代半ばで夭折【*2】、その後いくらも経たないうちに孫権曹操(立案したのは司馬懿の連衡策にはまって関羽討伐の兵を興す事になるが、もし魯粛が生きていたらそのような誘いに乗らないよう強硬に孫権を諫めたであろうし、荊州のパワーバランスも史実とは全く違うものになっていた可能性が高い。

魯粛劉備と事を構えるのは曹操を利するだけ」という事、つまり「合従」という概念を理解していた戦略家、政治家だったと言える【*3】。彼の後を継いだ呂蒙は「士別れて三日すれば、即ち更に刮目して相待すべし」と答えるような人物であったが、その本質は「戦術家」の領域を越えていなかったようである(普通に考えて短期間で詰め込んだ学問で戦略眼を養うのは非常に難しいと思う)し、前任の周瑜にしても政治家としての才はともかく魯粛のような「合従」という考え方は持っていなかったようなので、魯粛はまさに「呉で随一の視野を持った戦略家・政治家」だったと言える。元々は地方の豪族の出であるが、若い頃から公平謹厳、文武両道、困っている人には私財を惜しみなく分け与え、特に周瑜が援助を求めてきた時には「蔵1つまるごとあげた」という逸話があるような人であった。

…だが、三国志演義で知られる魯粛の人物像正史と比べるとどこか「情けない」人物に描かれている。演義でも主に劉備との橋渡し役であるが、やる事成す事全て諸葛亮にはいいようにあしらわれ、周瑜からは「お主には外交官の才能がない」と詰られる始末【*4】。後に荊州の領有で関羽と対談した「単刀赴会」でも関羽  というより諸葛亮が用意した台本に」という方が正確だろう  言い包められて「ぐうの音も出ない」状態であったが、正史では逆に魯粛関羽を論破して『関羽の方がぐうの音も出ない』状態であった【*5】。途中で(これも諸葛亮の策の一環として)周倉が対談に割り込むシーン、これは正史にもあるが、正史の場合言葉に詰まった関羽を援護するためにしゃしゃり出てきた(けど魯粛には全く効かなかった)だけで、その意味合いも全く正反対に書き換えられている*6

魯粛は既出の魏延周瑜と違って「諸葛亮に楯突いた」といった要素がない。にも拘わらず何故演義魯粛はこのようなキャラ付けにされたのだろうか。自分が考えつく理由は2つ。

 

1.諸葛亮と同レベルの戦略眼・政略眼を持っている事が気に食わなかった

羅貫中にとって孔明様(笑)は神に等しい存在であり、(武芸のような専門外分野を除けば)彼を上回るのは無論、「同レベルの存在がいる事」すら許し難い事だった可能性が高い。例えば北伐で相対した司馬懿にしても、演義で読む限り「知恵比べは諸葛亮の方が少し上だった」という風に読める。それと同様で魯粛も政治家や外交官としての能力を「諸葛亮より下」のレベルに貶められた可能性が高い。なお、魯粛周瑜と同様に「天下二分の計」に類するものを孫権に献じているが、それを理由とするなら「同罪」になっていてもおかしくない甘寧に対してその手の脚色が見られないのでこの献策が人格を貶められた原因とは考えにくい【*7】。

 

2.魯粛の字が劉備の叔父と同じ「子敬」である事を不遜だと思った

…多くの人から「何だそりゃ?」とツッコまれそうな理由だが、正史と演義系の両方を読むと(言い換えると「羅貫中の手口」を知ってしまうと)これが「全くあり得ない話」とは断言できなくなる。

同時代に孟達という人物がいた。元は益州劉璋に仕え、同僚の法正や張松と共に劉備を蜀に迎え入れようと画策。後に劉備に仕え「その後いろいろある」わけだがそこはいったん置いておくとして、この孟達正史によると元々の字は「子敬」であったが、劉備に仕えるようになってからは劉備の叔父と同じ字を避けるため」に*8字を「子度」と改めている。

一方で演義だと孟達の字は初登場時から「子慶」となっており(途中で変えた、という様子は見られない)、最初から「子敬」という字を避けたように思われる【*9】。演義だと孟達関羽からの援軍要請を断って見殺しにした張本人」のような扱いで、そのような奴に「子敬」という立派な(?)字などつけられるか、と考えたのかも知れない。

前述のように魯粛劉備諸葛亮に害を成した存在とは言えない(むしろ友好的な存在である)。しかしやはり「子敬」という字は不遜だ、という理由人格や能力を歪められてしまった…という可能性を完全には否定できないのである。他の作者ならともかく。

あくまで可能性ではあるが、「同じ名前(字)が2人いるから」という理由で難癖をつける人間というのは500年以上、もしかしたら1800年以上も前からいた事になる。…人間(とか国)というのは意外に成長しないものなんだなぁ。

 

ちなみに前述の孟達だが、正史と演義とでは関羽孟達(と劉封)に援軍を要請した時期が違う」。演義(世間によく知られているタイミング)だと関羽が麦城に落ち延びてまさに絶体絶命、というタイミングであるが、正史だと荊州が落ちるより前、樊城攻略のための増援要請、となっている。主君を何度も変える節操のない奴劉璋劉備曹丕→蜀に出戻り…しようとして司馬懿に討たれる)という印象が強い彼だが、冷静に考えて関羽の死の責任を押し付けられる(九分九厘殺される)と察したら逃げようと考えても別に不思議ではない*10ましてや(援軍を断った時期が)演義のタイミングならともかく、正史のタイミングで孟達の罪を問おうとするのは完全に「とりあえず誰かを犯人にしておけ」のレベルである。

孟達は魏に亡命した一方で劉封は逃げずに出頭した(正確には「先に魏に亡命した孟達に攻められ、成すすべなく逃げ帰った」が、劉備は完全にプッツン状態(いつの言葉だ…)、諸葛亮も彼を擁護せず*11当の劉封死に際し「こんな事になるなら孟達と一緒に逃げていればよかった」と漏らしたという。

そういう意味では孟達もある意味「羅貫中の毒牙にかかった一人」なのかも知れない。その要因は関羽の援軍を断ったから」なのか「字が『子敬』だったから」なのか…

*1:政府はマイナンバーカードの円滑な利用のため、とか謳っているらしいが、ああいうのに固執している時点で政治家(というか自民党)に知性もモラルも感じられない(というか「裏に金絡みの『何か』がある」ようにしか見えない)。

*2:「真・三國無双8 Empires」では「218年に始まるシナリオ」で魯粛が生きている(しかもゲーム中で見れる人物事典でも魯粛が「217年没」である事を確認できる)。…このシリーズでは時折こういう「ダウト」が見られる(例えば「兄」が生まれていない年に「弟」が登場している、とか)。

*3:もっとも単に「親劉備派」というわけではなく、孫権の覇業のための最善策、言わば諸葛亮の天下三分の計と同じような考えを持っていた、というのが正確だろうか。ちなみに合従・連衡という概念が生まれたのは中国の春秋戦国時代

*4:「蔵1つまるごと」の支援をもらった人物にそんな言い方はないだろう、と思う。つまりこんなところでも「周瑜の人格が密かに貶められている」という事になる?

*5:三国志平話(演義より前にあった三国志を基とした小説)だと魯粛はこの場で関羽を抹殺しようとした、とあるが、魯粛の戦略方針から見たら「まずありえない話」。この三国志平話には演義以上に荒唐無稽なエピソードが多いようだ。

*6:そもそも周倉は正史にその名が登場せず、このシーンのこの男にいろいろ肉付けして出来上がったキャラ、と見るのが妥当だろう。

*7:甘寧は「諸葛亮劉備との接点がほとんどなかった」ので脚色する必要性を感じなかった(甘寧以外にも同条件に該当する人物は概ね正史に準ずる人物描写となっている)のかも知れないし、実は甘寧も天下二分の計を献じていたという事を「羅貫中が見落とした」だけ、という(周瑜魯粛と違って甘寧は武官のイメージ、しかも元水賊という事で「あまり頭が良くない」みたいに決めつけていた)可能性もあるが…

*8:特に関羽からはその字のせいでいろいろな嫌がらせを受けていた、とも言われる。

*9:そう言えば張飛の字は正史だと「益徳」なのに世間では演義での「翼徳」の方がはるかに浸透している。…どこから「翼徳」という字が出てきたのかハッキリした理由がよくわからん(張飛が単騎で曹操軍を食い止めた長坂橋があったとされる場所に立つ石碑にも「張徳横矛処」と書かれているとか)。

*10:例えば周倉のように「関羽に命を捧げた」とかいう人ならともかく(実際周倉や王甫は関羽の死を知って間もなく殉死している)、好きでもない(というか嫌がらせを受けた?)奴と心中なんてのは賢い人間の選択肢ではないと思う。

*11:演義だと「劉封孟達からの降伏勧告の書状を破り捨てた上で使者を斬り捨てた」事を理由に処刑を思い直すよう進言しているが、正史だとその反対で「彼の存在は世継ぎ問題に支障が出るから」と、関羽の件を口実とばかりに「積極的に処刑を勧めている」。