DJカートン.mmix

それって早い話「金儲けのための忖度」って事では。

ハイラルに諸葛亮は存在しない(これも「三国志を正史の視点で」の続き?)

少し前にゼルダの伝説「敵が放った矢を自分のものにするためのギミック」がネット上で紹介された時、それを見た人は口々にハイラル孔明現る」だの「周瑜も真っ青」などと言った称賛(?)の声を上げていたが、自分はその様子(記事)を見て

よくもまあここまでIQの低い奴が揃ったものだ

と思ったものである【*1】。…何故か。

史実の諸葛亮は「あんな事」はやっていない。

演義だと諸葛亮は八面六臂の大活躍(?)であるが、正史だと孫権との同盟の為に魯粛に伴われて呉に赴き、開戦か降伏かで揺れる孫権を説き伏せて開戦に踏み切らせた*2くらいの記述しかない。あのような「意図的に船に矢を射かけさせる」という策は正史だと後年「孫権が傾いた船のバランスを取るために行った」とあり、羅貫中孫権のアイデアを勝手に諸葛亮の智謀にすり替えてしまったのである。…裁判騒動になっている某ゲーム(某メーカー)といい勝負だと思う(…どこが?)。

 

そもそも周瑜諸葛亮を謀殺しようとした、という時点で史実ではない。確かに周瑜は(劉備と)諸葛亮の力を警戒していた可能性が高く、その力を削ごう(あるいは懐柔しよう)と考えてもいたようだが【*3】、正史を読む限り演義のような「謀殺」まで考えていたようには思えない。では何故演義周瑜はあんな「ギスギスした性格*4に貶められた上に諸葛亮を出し抜こうと策を巡らすも全て諸葛亮に見抜かれる哀れな人」、それこそ孔明様に楯突く痴れ者」というイメージが一番ハマる人物像にされたのか?

考えられる理由として

彼は主君(孫権)に「天下二分の計」を献策したから

「…何だよ、天下二分って。それを言うなら孔明の『天下三分の計』だろ」

と自信満々に語った方はとりあえず身の回りのネット環境を全て破棄した方がいいかも知れません【*5】。

周瑜孫権「揚州・荊州益州を支配し、曹操と渡り合える地盤を確保した上で天下を目指すべき」という戦略方針を献策している。「北の曹操・南の孫権という二大勢力の図式なので「天下二分の計」というわけ。実際周瑜それを実現すべく長江をさかのぼって益州への進行を始めようとしていた劉備にはそれを阻止する為の策も口実もなかった)その途上で病死してしまい頓挫。

もしこの「天下二分の計」が実現していたら(≒周瑜があと10年くらい長生きしていたら)劉備諸葛亮の立ち位置はどうなっていただろうか? …まぁ「良くて孫権陣営の一員」、という立場で終わっていただろう【*6】。つまり

孔明様の『天下三分の計』を差し置いて、しかも孔明様を蔑ろにするような戦略を立てるなど身の程知らずにもほどがある!」

羅貫中が考えた事によって周瑜諸葛亮を出し抜こうとして失敗する身の程知らず」にされた(だから諸葛亮に殺意を「覚えさせられた」)、最期についても単なる病死ではなく諸葛亮を出し抜いた」と思い込んだところを打ちのめされる、という屈辱的な負け方にされた可能性が極めて高い。…異論は認めない。ちなみに周瑜以外にも魯粛甘寧孫権に「天下二分の計」に類する事を献策したようであるが、それらは時期が悪かった(どちらも赤壁の戦いより前とされる)せいか実行には移されなかった。そのためかこの二人は周瑜ほどひどい扱いは受けていない(と言っても魯粛も「別の理由で」随分と人物像が歪められているが…)。

その最期で諸葛亮から無能を罵られる手紙を送りつけられて「何故天は周瑜を生みながら諸葛亮も生んだのか!」と叫んで血を吐いて死んだ、というエピソードも言うまでもなく創作。また赤壁の戦いに先立って曹操二喬孫策周瑜の妻、世に言う「大喬」と「小喬」)を差し出せば彼は軍を引く」と言って周瑜を激怒させた、というのも同様*7】。また敗戦後逃げ帰る曹操「ここに兵を伏せぬとは愚かな奴よ」とか笑っているところに都合よく趙雲張飛関羽が現れる、なんてのも言うまでもなく。ちなみに曹操の「女癖の悪さ」に関するエピソードは全てが演義の創作というわけではなく、張繍を攻めた時にその叔父(張済)の未亡人に現を抜かしたとか、(曹操に一時降っていた時の)関羽が「妻に迎えたい」と言った女性(「杜夫人」という名前が見られる)あまりに美人だったので強奪して側室にしてしまった、などのエピソードは正史や裴注にも見られる。ただ張繡の時はそれが原因で逆撃を喰らい息子の曹昂や護衛の典韋を戦死させているので、そのような痛恨を経験した曹操が「女2人欲しさに大軍を動かす」なんて話はさすがに無理があり過ぎる(し、曹操がそんな人物だったらとっくに死んでいただろう)。

 

赤壁の戦いは100年余りの三国志の話の中で「最大のクライマックス」であるかのように見られる(描かれる)事が多い*8】が、いろいろな「三国志」に触れていると

世間に知られている赤壁の戦いは過大評価されているのではないか?

という気になってくる。…もっとも正史の場合「魏→晋に忖度した」のか「記述があっさりし過ぎて過小評価されている?」嫌いがあるのだが。

まず曹操が動員した兵力について。曹操孫権に送った降伏勧告には「80万」という数字が見られるが、この数字はほぼ間違いなく誇大広告だろう【*9】。赤壁の戦いの70年後に晋が呉を攻略すべく兵を興したが、この時は「蜀から長江を下ってくる主力部隊」と「それを支える各所の部隊」を全て合して20万くらいだった、別の言い方をするなら荊州から建業のあたりまで長江の北岸にズラーっと配した兵力」が全部で20万くらい、と言われる。それに引き換え赤壁の戦いの場合荊州のあたりだけに80万を配した事になるわけで、例えばそれだけの兵を配置する場所、兵站、指揮統率する手段や人材、その他…と、いろいろな意味で無理がある*10なので実際に赤壁のあたりに布陣した水軍は10万前後(プラス平地の軍。それでも呉と比べたら相当な物量)だったのではないか。

呉の黄蓋が偽りの降伏を申し出て火計を成功させた、というのは正史にも見られる記述だが(さすがに演義で知られる「苦肉の計」などはフィクションだろう)、あれだけの大敗を喫していながら魏の主だった武将に戦死者がほとんどいなかった、というのも妙な話。陣中に疫病が蔓延していたというので、古参の魏の将兵は早い段階で「帰り支度」をしていた(現地で戦死したのはそのほとんどが荊州から下った兵だった)のかも知れない【*11】。

つまり曹操にしてみれば赤壁での敗戦は(人的・物質的な損失は)大したことがなかった」と思われる。しかし演義とかだと赤壁での敗戦で天下統一の野望は断たれた」みたいに大仰に描かれている。…のだが、たとえ人的・物質的な損失が少なかったとしても赤壁での敗戦によって曹操の野望は事実上断たれたと言うのは誇張ではないと言える。その理由は「大軍が少数に敗れた」という一事。

歴史上そういう事が起きると決まって「あいつも大した事ねぇな」とか言って好機と見た隣国の侵攻や国内の叛乱が勃発する。赤壁の戦いの8年前に官渡の戦いで大敗した袁紹はその敗戦後でも曹操を上回る国力を誇っていたが領土各地で起きた叛乱に手を焼き、結局袁家は没落していった。また歴史を下ると蜀でも夷陵での敗戦後に国内の叛乱が起きているし【*12】、もっと下ればオスマン帝国フランス帝国(ナポレオン)、今川家なども「大軍をもって少数に敗れた」事で国内の混乱を招いて没落している。魏も例外ではなく6桁の大軍が3万くらい(諸説あり)の呉軍に敗れた、という結果を受けて国内各地での叛乱が勃発*13、それらの鎮圧・国力の回復に数年を要したので少なくとも曹操の代での」天下統一は事実上断たれたと言ってもいいだろう。…それでもそこから「立て直した(上に5~6年後くらいには漢中を制した)」というのは曹操の非凡さが見て取れる話でもあるのだが。

他にも演義赤壁の戦いには「ダウト」が多い。周瑜の学友だったという蒋幹(しょうかん)が周瑜を懐柔しようと呉に訪れたというのは事実のようだがその時に周瑜がそれを逆用して魏の水軍を指揮する蔡瑁を謀殺させた、というのはダウト*14】。蔡瑁が死んでいない以上その一族の蔡和、蔡仲が「埋伏の毒」として偽装降伏なんてのもあり得ない。龐統による連環の計も然り。いくら「そっちの方が読んでいて面白い」かも知れないとしても見る人によっては「露骨過ぎて逆に興を殺がれる」と思う。

また諸葛亮にしても彼が世間の評判通りの人物だったとしたらあんな「小細工」を是とはしないと思う。もっともあの「矢借り」は命を狙われた窮地を脱するために「仕方なくやった」という解釈もできるが、そもそも同盟の使者として訪れた諸葛亮がその後も呉の陣営に居続けるというのもすごく変な話である。いくら同盟関係とは言え普通に軍事機密に関わる事だからからしたら「用が済んだらさっさと帰れ!」だろうし、諸葛亮もわざわざ孫呉との関係を悪くする事=無用な滞在はしないだろう。先主伝(劉備の伝)によると劉備周瑜の勝利を全面的には信じていなかった(つまり負ける可能性も考えていた)ようなので、実際の諸葛亮交渉が済み次第劉備の元に戻り(魏が勝つ、という「結末」も想定した)今後の方針を協議していた、というのが事実ではないだろうか。

 

そういうわけなので諸葛亮が策を弄して矢を集めた、というのは「ダウト」である。むしろ諸葛亮のような人物は「ある程度評価を割り引いて」読んだ方が三国志はずっと面白い、と思ったりもするのだが【*15】…

*1:もっともそんな事を言ったら最近話題?になっている「牛丼屋で『ごちそうさま』を言う人は収入が低い」とか宣う奴のIQは「地を這うレベル」じゃないのか、と思われるのだが。

*2:当時の呉では所謂「呉の四姓(陸・朱・顧・張)」と呼ばれる地元豪族の力が強く、孫権が何かしようとしても彼等の協力が前提であった。なので実際に諸葛亮が「説き伏せた」のは孫権よりも「呉の四姓」だった(演義だと「降伏派」の代表が張昭とまさに「呉の四姓」の1人であり、実際もああいう感じだった)のではなかろうか。

*3:曹操も「戦略的な優先順位」を無視してまで劉備を討つ事を優先させる事があったので、劉備にはそう感じさせる「何か」があったのだろう。

*4:正史では「謙虚で寛大な人物」とあり、彼を嫌っていた程普も彼の振る舞いに遂に感服した、とあるので完全に真逆である。

*5:「天下三分の計」という呼称は後世の人がつけた俗称で(いつ、誰が付けたのかは不明。一説には日本人だとも?)、元々は「隆中策」(諸葛亮が隠棲していた「隆中」の地で劉備に示した事に由来)と呼ばれていた。

*6:その頃既に妹(所謂「孫尚香」)が劉備に嫁いでいたので一応「義兄弟」ではあるが…

*7:この時諸葛亮が披露した「銅雀台の詩」は後に曹植が詠んだ詩の単語をすげ替えたもの。またこの話自体も後世(羅貫中が生まれるより前)の詩人が「もし曹操赤壁の戦いで勝利していたら二喬は銅雀台にいただろう」と詠んだものを利用した可能性が高い(そもそもこの時点で銅雀台は完成していないし)。

*8:だから「レッド・クリフ」なんて映画まで生まれる。

*9:曹操が擁していた全兵力がそのくらいという可能性はあるが、彼の領土は広大=各所にそれなりの兵を置いておく必要があったので全兵力を1か所に集めるのは事実上不可能だろう。

*10:後に劉備関羽の復讐戦として始めた「夷陵の戦い」についても(正史だと蜀の兵力がハッキリしないが)演義だと「75万」という赤壁の戦いもビックリするような数字になっている。これも同じ理由で「無理がある」数字としか思えない。そもそも劉備の場合曹操と違って「それだけの兵力を持っていた」事自体が考えにくく、当時の国力などから推察するに彼が保有していた戦力は「国中の兵をかき集めても8万くらい」(夷陵に出兵したのはその中の半分くらい)だったと思われる。

*11:呉主伝(孫権の伝)には「曹操は敵に物資を奪われないよう船などを自ら焼いて撤退した」なんて記述がある。そもそも正史だと伝によって赤壁の戦いについての記述に統一性がなく「本当に同一人物が書いたものなの?」と疑いたくなる。

*12:南中で起きた(雍闓らの)叛乱も「劉備が死んだ事」よりも「夷陵での惨敗」が原因だと思われる。

*13:馬超との戦いである「潼関の戦い」もその1つと言える。ちなみに正史だと「馬超が叛乱?を起こしたので見せしめとして当時都にいた父の馬騰が誅殺された」となっており、演義の「曹操暗殺が発覚して誅殺された父の復讐戦として挙兵した」とは因果関係が正反対である。

*14:正史だと蔡瑁赤壁以降も生き延びて出世している(それどころか「蔡瑁曹操と旧知の間柄だった」と指摘する史書もある)。蔡瑁の一族は元々は荊州の有力な豪族なので「自らの権益が守られるなら主君は誰だって構わない」と考えていても不思議ではなく(ましてそれが「旧知の曹操」だったらいろいろと「有難い」と思ったに違いない)、かつて仕えた劉表も「公式には病死」でも実際は「蔡瑁による暗殺」だった可能性が高い(中国ってのは昔からこういう事を平然とやっていたんだな…)。

*15:同じ事は大谷翔平とか藤井聡太にも言えそうな気がする。