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それって早い話「金儲けのための忖度」って事では。

三国志を正史の視点で・1

GW以降はジグソーパズル以外では三国志の「正史」に関する本を読む時間が多くなった。

今でこそ「正史ベースで書かれた」三国志のメディアも少なくないが、それでも世間に(日本でなく地元中国でも)根付いているのは「演義」の方(のエピソード)だったりする。自分は「正史」と「演義」の違いについてちょっとは知っていたが、詳しく掘り下げたのは今回が初めて。おかげでこれまで知らなかったエピソードも多く知る事ができた。

「正史」ってのは「歴史書なので、基本的に事実を基に記されている…わけだが、これを書いた陳寿という人の環境(蜀に仕えたがその滅亡後に晋に仕え、そこで「三国志」を書いた)「魏(→晋)が正統の王朝である*1というスタイルのせいで何でもかんでもありのままに書く、というわけにもいかず、割愛や簡略化された箇所は多く、中には嘘や脚色もあるかも知れない。また「一人の人間が書いたはず」なのに一つの出来事に対して複数の結果が書かれている事も少なくない【*2】。

そんな事情のせいか期間と人物の多さで考えると文量は少なく(およそ368000字)、三国志の完成から100年以上経った時に時の皇帝(三国志を愛読していたと言われる)が裴松之という人に「詳しい解説書」を書くよう命じ、当時民間に伝わっていた伝承や史料を基に作られたのが裴松之の注」、略して「裴注」(およそ322000字で「正史」に匹敵する文量)。今ではこれも含めて「正史」と呼ばれる事もある。

一方の三国志演義(「演義」とは「正義を演(=述)べる」という意味)は裴注の成立からおよそ1000年後に書かれたもので、史実をベースにしつつも「読んで面白い事」を重視したがためにあまりに荒唐無稽なエピソードが多い*3】。また演義にしか登場しない人物(周倉関索など)、設定が正史と異なる人物(関平など)も多い。そして何より羅貫中が熱烈な諸葛亮信者だったため主役と悪役(正史に「悪役」というのもおかしいが、正史は一応「魏が主役」であるので呉や蜀は悪役とまではいかないが「脇役」である事は間違いない)が完全に入れ替わっている。

 

具体的にどこがどう違うのかはそれをまとめた本なりサイトなりがあるに決まっているからそちらに譲るとして、ここでは演義割愛ないし簡略化された」&「個人的な見解を書けそうな」事について述べたい。

 

1.王允董卓以上のワルだった?

王允(字は子師)と言えば董卓の暴虐を阻止する為呂布を篭絡して董卓を殺させた、ある意味「正義のヒーロー」みたいなイメージがあるが…

史実では王允が策を弄するより早く董卓呂布の間には亀裂が生まれていた。呂布「些事に腹を立てた董卓から戟を投げつけられた(つまり一歩間違えていたら殺されていた)事があり、しかもちょうど時を同じくして呂布董卓の侍女の一人と密通していた*4ので、董卓の事を

「もし密通などがバレたら間違いなく殺される」

と恐れていた。そこを突いた王允に篭絡され董卓誅殺を決意。董卓は討たれ、その立役者の王允は「ヒーロー」のような扱いをされる。ちなみに「演義」だと王允董卓暗殺を企てた曹操に「七星剣」を貸す、というエピソードがあるが正史にはない(そもそも「曹操董卓暗殺を企てた事自体が創作」で、董卓から与えられた官職を辞して郷里に帰っている)。

 

かくして董卓亡き後の政権の座に就いた王允だが、その後の演義とかには見られない)エピソードを見ると彼への評価は変わる。当時中央には「当代随一の博学・人格者」と言われた蔡邕(さいよう、字は伯喈)という人物がいた【*5】。一時期董卓にも仕えていたが、「気に入らない奴は片っ端から虐殺」してきた董卓でさえその名声を憚ってか蔡邕にだけは手を出さずにいた。しかし王允はその蔡邕が董卓の死を悼んだ」というだけの理由で彼を処刑してしまう。群臣たちは処刑を思いとどまるように諫めたが全く聞く耳を持たず「せめて『漢史(当時蔡邕が編纂中だった史書』が完成するまでは」という訴えにも「罪人が書く史書に何の価値があるか!」と吐き捨てた、と言われる(おそらくは「史記」に対する当てつけだと思われる)。

董卓が殺された時、その配下の李傕、郭汜は洛陽方面に遠征中だったが、董卓の死を知って長安に逃げ帰る。王允は結果的に彼らに攻め滅ぼされるわけだが、正史では「李傕、郭汜は王允への降伏を申し出た」王允は(ここでも周囲の意見を無視して)「『董卓の一味だったから』という理由でそれを拒否した」とある。進退窮まった彼らだが、当時配下にいた賈詡の進言で長安を攻めるとこれがあっけなく陥落、王允および一族は族滅され呂布は敗走【*6】。

 

王允の場合「悪い意味での潔癖症というのが事実に近く(正史によると「若い頃からそういう性格だった」そうで、敵も多く、殺されかけた事も一度や二度ではなかったようだ)、「ワル」とは少し違うが、「他人の意見を聞かなかった」のは董卓と同じだし、「自己の信念に基づいて人を殺す」というのはある意味「自己の欲望に基づいて人を殺す董卓」以上に質が悪い。若い頃は「王佐の才」と評されたらしいが、そう評した人(高名な人だったらしい)は一体彼のどこを見てそう思ったのだろうか…*7

なお、王允は「相当な高齢の人物」として描かれる事が多い(例えば横山三国志とかでは「髪も髭も真っ白な老人」になっている)が、董卓を討った時の年齢(=享年、当時の中国は数え年)は56歳。曹操(同66)劉備(同63)より若くに死んでいるのに、曹操劉備(の最期)の方が若く見える事が多い。諸葛亮(同54)の最期と比べたら親子くらいに見た目に差がある。

 

…長くなったので続きは次回。

*1:実態はともかく表面上は魏は漢から「禅譲」されている(ので正統の王朝)。魏→晋も同様。

*2:例えばかの「赤壁の戦い」についての記述。…書くと長くなるのでここでは割愛。

*3:「当時の中国にはなかったもの」も多く登場しており、関羽の「青龍偃月刀」、張飛の「蛇矛」、呂布の「方天画戟」もその1つ。…(諸葛亮が南中制圧で使った)「地雷」や「虎戦車」? んなもんあるわけねーだろ(笑)。

*4:演義」でこの時に活躍する女性「貂蝉」はこの侍女をベースに作り上げられた(と思われる)架空の人物。それ故か彼女の設定はメディアによって千差万別(「もともと醜女だった顔を墓から掘り起こした美女の顔と挿げ替えた」「実は呂布の妹」なんて素っ頓狂な設定もあるくらい)、その最期も「董卓の死を見届けて自害(吉川三国志と横山三国志はこの最期なのである意味「日本人にもっとも馴染んでいる最期」と言える)」「下邳で呂布と一緒に処刑される」「曹操の側室になった」「(曹操に降っていた頃の)関羽が妻とした」「関羽に斬られた」など様々。…もっとも「そもそも架空の人物」なので設定や最期がどうであっても意味はほとんどないのだけど(笑)。

*5:マニアックな人には「蔡文姫の父」と言った方が分かりやすいかも知れない。

*6:この時甥にあたる王淩(おうりょう)という人物は命からがら難を逃れている。その後魏に仕えるが、この60年くらい後に司馬氏の専横に耐えかねて叛乱を起こしている(この時担ぎ出された「曹彪」という人物は曹丕の弟でその当時  曹丕だけでなく子の曹叡も没していた  で50代後半)。

*7:同時代に「王佐の才」と評された人物として荀彧がいるが、彼と比べるとその功績や能力は雲泥の差と言える。