DJカートン.mmix

それって早い話「金儲けのための忖度」って事では。

BIGBOSSの考えはどこから?

自分は日ハムファンではないので開幕投手がドラ8であろうと登録名を「BIGBOSS」にしようと正直どうでもいいのだが、開幕投手を巡るBIGBOSSの発言については興味がある。

いい投手を3、4番手に持っていったら、相手の投手は3、4番手。勝ちをもらえる

…正確な発言は忘れたが(気になる方は調べて下さい)大体こんな感じの事を言っている。

自分が興味を持ったのは今から2500年くらい前に同じ事を考えた人がいたから。中国の戦国時代の武将「孫臏(そんぴん)がその人。

当時は競馬が流行っていた。ただ競馬と言っても今のような競馬ではなく、「2人の馬主がそれぞれ3頭ずつ出し合い、1対1による三番勝負の結果で勝敗を決める」というもの。つまり「馬主同士の賭け」である。孫臏が仕えた斉国の将軍田忌(でんき)もこれに参加したが、その時孫臏はこう助言する。

相手が最高の馬を出してきた時はこちらは最低の馬を出し、相手が二番目の馬を出してきた時にこちらは最高の馬を出しましょう

つまり序列でいうと「1-3」「2-1」「3-2」(右が田忌)という組み合わせで戦う事になり、序列が上の方が勝つとすると「田忌の2勝1敗」になる事が濃厚。実際そのとおりの結果となって田忌は大金を手にして喜んだ、と言われる。

 

…今回のBIGBOSSの考えと原理は同じではないか。

BIGBOSSが孫臏の話を知っていたのかは分からない。奇想天外な事をやりまくっている人だが同時に理詰めで繊細なところも見せるので、他の人と違って(単なる閃き・気まぐれではなく)孫臏の話を参考にしての投手起用」という可能性を否定できないのである。もしかしたら旧師である故・野村克也氏の考えがベース(氏も「こういう事をしそう」な人物というイメージ。もしかしたら何度も実践していた?)という可能性もあるが。

この「孫臏流」(あえて「BIGBOSS流」とは呼ばない事にしましょう)が功を奏するかは分からない。そもそも野球は「投手だけで行うゲームではない」ので、投手の序列だけで勝敗が決まるわけではない。一方でプロ野球は「全部勝たないといけない」わけではないので、こういった「相手のエースに自分のエースをぶつけない」、今風に言えば「捨てゲー」を設けるというのも立派な戦略だと思う(前述の孫臏の話も「全部勝たなくてもよい」という事をわかっているから故の作戦と言える)。それに相手がエースでも「全力で全員がつぶしにいけば勝ちを取れる(これもBIGBOSSの発言)可能性はある=負けると決まったわけではないので。もしこの「孫臏流」が上手く機能するようであれば日本球界全体に波及する可能性もあるし、ダメならそれっきりだし。

 

以下おまけ。

三国志に詳しい人(自称でも可)だったら

北伐に出た諸葛亮が退却する時に「野営した場所の『竈』の数を徐々に増やしていって」魏の(疑心暗鬼を誘って)追撃を食い止めた

という話を知っていると思われるが、この作戦も元々は孫臏の策略が基となっている。

撤退する斉軍を魏(勿論三国時代の魏ではない)軍が追撃してくる。そこで孫臏は「野営した場所の『竈』の数を徐々に減らしていって」こちらは兵の脱走が相次いでいるように見せかける。それを見た魏の龐涓(ほうけん、孫臏にしてみればかつて自分を陥れた「仇敵」)は足の速い騎兵のみで急追を仕掛けるが、待ち構えていた伏兵に大量の矢を浴びせられて戦死した(進退窮まって自殺したとも言われる)。この戦いは「馬陵の戦い」と呼ばれる。

諸葛亮は追ってくる相手が司馬懿「馬陵の戦いの故事は知っているという前提で」孫臏の作戦をアレンジする事で「心理の裏の裏(の裏?)」をついて追撃を食い止めた、というくだりである。…よく知られる諸葛亮の退却エピソードに「空城の計」とか「死せる孔明生ける仲達を走らす*1とかがあるが、あまりに話が出来過ぎているのでどこまで本当なのかは非常に怪しいつまり

羅貫中は退却する場面でも「孔明様(笑)は神の如き智謀を使いなした」ように捏造した

可能性はかなり高い【*2】。

ちなみに孫臏は前述の馬陵の戦いを最後に歴史の表舞台から姿を消し(「恩人の田忌が他国へ亡命したから」「仇敵を葬る事ができて満足したから」など様々な理由が考えられる)、その後どうなったのかは不明。後世に「孫臏兵法」と呼ばれる兵法書*3を著したとも言われるがこちらも真偽は定かではない。

 

…今日も見事に話が脱線した(笑)兆しとしては悪くない(…どういうこっちゃ)。

*1:原文だと「死せる諸葛生ける仲達を走らす」となっているが、いつの間にか「死せる孔明」の方が定着しているのはこれも羅貫中の功績?なのかも知れない。

*2:史書によると「空城の計」は本当に行っている、「死せる孔明・・・」は蜀軍の迎撃態勢を見て司馬懿が退いたのは事実でも「木像を用いた」のはフィクション。「竈」の話は不明。

*3:このブログに度々登場する「孫子」とは別物。「孫臏兵法」が発見されたのは1972年4月と比較的最近の事(それまでは「孫子=孫臏の著作」という説が根強かったが、「孫臏兵法」の発見でその説は否定されたという。この記事を書いているのはそれからほぼジャスト半世紀、というのは完全な偶然)。