「団菊爺」という言葉を御存知だろうか(自分は最近知った)。ちなみに読み方は「だんぎくじじい」(自分は「だんぎくや」だと思った)。
「団(旧字の『團』である事も多い)」は九代目市川團十郎、「菊」は五代目尾上菊五郎(両者とも明治の歌舞伎役者)の事で、「この2人が歴史上最高の役者である」という信念(?)を基にそれ以降の役者や舞台、あるいは(彼等を見た事がない)ファンを批判する(事を生甲斐としているような)評論家や好劇家(を気取っている人)を指す隠語。…そんなわけだから少なくとも誉め言葉ではない(自嘲的に使う人もいたというから完全な蔑称というわけでもなさそう)。前述の少し後の時代の六代目尾上菊五郎(五代目の実子)、初代中村吉右衛門を基準とした「菊吉爺(きくきちじじい)」という言葉もあり、意味合いとしては同じもの。
…そういう輩はいつの時代にもいるようで、以前「王・長嶋が絶対基準の人」という話をブログで扱ったし【*1】、「団菊爺」よりも古い時代(七代目團十郎、三代目菊之助の全盛期くらい)にも同じような事を主張する「爺」はいたらしい。
そしてごく最近だと大差のついたゲームで「中継ぎ投手を休ませるために」野手登録の選手を投手として登板させた原辰徳監督の采配を批判する「爺」が話題になっている(前述の単語のようにするなら「巨人爺」とでも言うのだろうか)。そういう輩は口をそろえて「巨人軍がそんな事をしてはいけない」と言う。もしBとかいう巨人OB【*2】が生きていたらTVモニターの向こうでテーブルを蹴飛ばしてブチ切れていた(そしてその姿勢に沢山の批判が寄せられた)のではないか、なんて想像をしてしまう。
自分は野球に対する興味が薄れているので正直「どうでもいい」と思っているが【*3】、MLBでは普通にやっている事(平時はNPBより試合数が多いし、何より「延長無制限」なので野手が登板する機会はNPBよりはるかに多い)、という事実を抜きに考えても「ルールで認められている範囲内での選手起用」に対して外野が騒ぐ権利なんてあるのか? と思うし、中でも「伝統」なんぞを盾にとって批判する輩は「…アホちゃうか?」としか思えない。
今日「伝統」と呼ばれるものは得てして非効率的・非合理的、ぶっちゃけ「無駄」である事が多い。将棋の名人戦の「持ち時間各9時間(要は2日制)」というのも「今時そんなの必要か?」と疑問を投げかける人が関係者(プロ棋士)にもいるという。だが人間(の心)が介在する以上、何でもかんでも「無駄」の一言で切り捨てるのもどうかとは思う。
個人的には「有害」でなければその伝統を無理矢理排除する必要はないと思っている。…ただ、巨人軍にまつわる「伝統」の多くは日本のプロ野球を発展させるうえで「有害」になっていそうな気がする。少なくとも今回のような采配、要は「変化」を否定するための理由にしか使い道がないのだとしたらほぼ100%有害だろう。
以前の記事では「刷り込み」という表現を使ったが、伝統とか「過去の栄光」というのは刷り込みが起こりやすい、そして「変化を受け入れられなくなる」最大の要素なのかも知れない。かく言う自分も年を取る事で「変化を受け入れにくい体質になりつつある」わけだが(笑)、中には「無理に変えなくてもいい」と思っている事も少なくないし、何より
「新しい事は常に正しい」あるいは「古い事は全て間違っている」というような現代風の価値観がそもそも間違っている
ように思う。例えば野球の継投にしても一昔(二昔?)前だったら「完投が先発投手の当たり前」だったが、少し前に「勝利の方程式」と呼ばれる形式(先発が6回→3人の中継ぎが7・8・9回を1回ずつ担当)が定着して以来「継投で勝つのが当たり前」になって、それに伴ってなのか「クオリティスタート(先発投手が6回を3失点以内で投げ切る、という先発投手の基準値)」なんて訳の分からない横文字も定着している。ただ、個人的にはシーズンという長丁場(中継ぎ投手への負担など)で考えるなら「完投による勝ちパターンもある(完投勝利を見込める投手が1~2人いる)のが理想」、そして「最低でも7回2失点」くらいが「本当の意味でのクオリティスタート」ではないかと思う。ただそれを目指すとなると「投球数を少なくする(≒ファウルで粘られにくくする)方法」なんて事も考えないといけない(ここを追求した野球論というのはあまり聞いた事がない)のでいろいろ大変っぽいが。…そもそも何でもメジャーに右習え、という考え方に「浅ましさ」しか感じないのは自分だけだろうか。
直近で「新しい事は常に正しい」という価値観の象徴とも言えるのが「リモートワーク」だと思う。…だが、現実は「導入したけどもうやめた」という企業も少なくない。民間の調査会社「東京商工リサーチ」が7月に全国14000社くらいに行ったアンケートでは「導入している」が31%、「導入したことがない」が42%、そして「導入した事があるけどもうやめた」が27%という結果。つまり
「リモートワークを導入した事のある会社の半数弱は『もうやめた』」
という事になる【*4】。もし本当に「リモートワークが正しい」のなら「もうやめた率」はもっと低いはずである。
このように「新しいけど正しくない(以前の方が理に適っていた)」事なんてのはいくらでもあるし、「新しい理論」の中には「二昔くらい前では常識だった事」、要は「一昔前に否定された事」が今になって見直されているだけ、なんて事も少なくなかったり。例えば「鎌倉幕府の成立年」は21世紀に入ったあたりから「1185年」と教育されるが、それ以前(≒昭和生まれ)だと「1192年」と習ったと思う。しかし戦前までは「1185年」が通説とされていたのである(何故何度も変わったのかは不明だが、要は「何を持って成立とするかの解釈の変化」だろう)。将棋の戦法も昭和の時代から指されていた(けどメジャーにはなれなかった)戦法がここ数年で再び脚光を浴びている、というものが少なくない(6七金『左』とする「土居矢倉」とか「エルモ囲い」とか…)し、今の将棋は「固さよりバランス」と言われている(一昔前は角換わり腰掛銀「穴熊」なんてのも指されたくらいである)が、数年後には再び「固さ」を重視する将棋が主流にならないとも言い切れない。麻雀も最近は「戦術書」が沢山出ているが、正直なところ「一昔前の本の方がはるかに現実に則している」と思えるものも少なくない(もっともその一昔前には「現代の平均値より数段酷い」戦術書も多かったのだが…)。そもそも麻雀はルールや相手、「レート」でも適した戦術は変わってくるのでそのあたりに踏み込んでいない戦術書は「片手落ち」だと言えるのだが。
要は「何が正しいのか」という判断を的確に下したうえで「何を変えるか」と「何を残すか」の選択が重要、という結論に落ち着きそうである。ただ「何かを変える」にしても明らかに己の身の丈に合わない変化はするべきではないと思う。そもそも今の世の中には「人類の成長(主に精神面)がその理論(技術)を使いこなせるまで達していない」と思われるものが非常に多いような気がする(以前も書いたな…)。変な喩えではあるが、例えば「圧力鍋を使って料理すればとてもおいしい料理が作れる」と言われても、小学生で圧力鍋を使って料理できる人なんてのは(0ではなさそうだが)非常に少ない、というのは想像できると思う(それどころか大人でも使いこなせる人は少なそうだ)。それと同じ事で、今の世の中の「新しい理論」「新しい生活様式」なんてのはそのほとんどが極少数の例外(悪く言えば異常者)を基準に「新しいものは正しい」なんて言っているようなものだと思う。そんな催眠術みたいな話に惑わされてはいけない。