DJカートン.mmix

それって早い話「金儲けのための忖度」って事では。

某時代劇の嘘

詳細は書けないが「いろいろあって」2週間以上ブログを放置してしまった。その「いろいろあって」が将棋のイベント──この時期だと天童市岡崎市の将棋まつりなど──だったら良かったんだけど、そういう(楽しい)理由ではないので…
そんな中携帯中継で第60回天童将棋祭りの特別対局(人間将棋×2とペア将棋)を見ていて「某時代劇の嘘」が判明する以下は中継コメントを引用。

天童での駒作りは、幕末に天童藩の家老吉田大八が推奨したことに由来する。当時の天童藩は2万石の小藩で下級藩士の生活が苦しい状況にあった。「将棋は兵法戦術に通じ、武士の面目を傷つけるものではない」として、藩士に駒作りを奨励した。

早い話が元々は武士の内職だった(ものが天童市を代表する産業に発展した)のだが、自分が注目したのは「幕末」という言葉。調べるとこの吉田大八という人は1832年生まれ~1868年没(享年37)なので、天童に将棋駒という産業が定着したのはこの人のいた時代(前述の年間)、という事になる。
しかし、かつて放送していた時代劇水戸黄門」で御一行が天童を訪れた事が何度かあり、その度に将棋が話のテーマになっている(ちょうど「大会」が行われていて、優勝者は「将棋好きだけど下手くそ」な殿様と対局する、というパターンが多い)。

水戸黄門は諸国を漫遊などしていない!」

というツッコミももっともだが(水戸・江戸を除くと「箱根に湯治に行った」事くらいしかないそうだ)、もっと重要なのは水戸黄門が生きた時代水戸黄門徳川光圀の生没年は「1628年~1701年」、俗に「幕末」と呼ばれる時代より1世紀以上前である。つまり

水戸黄門の時代にはまだ天童藩に将棋(駒作り)の産業はなかった」

のである。では何故時代劇中の天童藩では将棋(駒作り)が盛んなのか? …まぁ早い話が「脚本家の思い込み」、酷評するなら「勉強不足」であろう。
世の中にはこの事実(矛盾)を古くから知っている(指摘している)人も多いと思うが、自分はこの年になって初めて知った事実なので、ブログのネタとして書かせていただいた。

…「電王戦FINALの後半はどうした」って? 正直筆が進まないんだよなぁ…(苦笑) 特に最終局(で阿久津八段の取った作戦、AWAKE開発者の巨瀬氏のコメント、など)は

「あなたにとって将棋とは何か?」
「あなたにとってプロ棋士とは何か?」
「あなたにとってコンピュータ将棋とは何か?」

という価値観の違いで見え方(答え)がガラリと変わってしまうので、感想が書きにくいというのもある(特に自分のような「プロ棋士贔屓」だと「偏った感想」になりかねない)。 …ま、これは自分の仕事ではないので(解答選手権のレポートは間違いなく「自分の仕事」。あらかた書き上げて近日中に仕上げて送信する予定)「気が向いたら」書こうと思う…というのは「書かない」と宣言しているのと同義かも知れませんが(笑)。