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それって早い話「金儲けのための忖度」って事では。

藤井猛九段・森下卓九段 解説会&トークショー

8月17日。自分にとっては「今夏最大のイベントの日」と言っても過言ではなかったと思う。

「居玉も矢倉も原点は同じ。詳細で綿密な組み立てと、追随を許さぬ職人感覚の融合。前例は参考でしかない」
現代の名匠の二人が語る
~常識を疑い、圧倒すること。そのために学びと準備・実戦では相手が気づかぬうちにすべてを終わらせる。それが私たちのシステム~

…何回見てもギネス級の(長さの)タイトルだと思うので、ここでは以降「解説会」と略す

前日までの予定はほぼ完璧に組めたのだが、当日の予定に不確かな部分が2つほど。

1・無事に浜松に帰れるか?
前回も書いたが交通費は「青春18きっぷ」で賄っているので、在来線で帰れる時間(今回の場合東京駅発車が1912)までに解説会が終わらないと大幅な出費(新幹線・夜行バス・宿泊のいずれか)がかかってしまう(※1)。しかも間の悪い事に(?)出演するのは島九段と森下九段なので、たとえ「○時まで」と予定が決まっていてもその時間に終わる保障がどこにもない(笑)。
無論そうなってもいいような準備(資金)はあるが、どうせなら青春18きっぷで帰りたいものである。

2・解説会の始まる時間までどこで何をするか?
ホテルのチェックアウトは1000(まで)、解説会の受付開始が1330。移動時間を除いても3時間近く時間が余る。しかしあまり金は使いたくないし、(暑いので)あまり長い時間外にいたくもない。
折角なので(?)東京ビックサイトでやっているコミケ(入場は無料)にでも行こうか、なんて事も考えたのだが、特にお目当ての作家・サークル・作品があるわけでもないし(※2)、万一の可能性を考えると青春18きっぷは使えない(前述の理由で17日中に帰れない、となったら1回分が勿体無くなる)のでそこそこに(?)交通費がかかる。
しかも公式HPを読むと「午前中は入場制限がかかる(ほど人が入る)」らしいので、「会場にいれる時間は果たして何分?」なんて事になりそうなのでチラッと考えただけでやめる。
いろいろ考えた結果、ホテルそばのゲーセンと両国の隣の錦糸町(主にヨドバシカメラ)で時間つぶしをする事に。そういうわけなので(?)ホテルサービスの朝食を食べた後は部屋で仮面ライダー鎧武(がいむ)」「ハピネスチャージプリキュア!」を見てのんびり出発準備。

昼食を済ませて両国将棋囲碁センターに着いたのは1320頃。既に何人かの客が来ている。今回も向かいの第二酵素ビル4Fが会場との事なので、受付を済ませたら足早に会場へ、できるだけ前の席を確保(笑)。
1400、4先生が登場。通常は3人(コーディネーターの島朗九段、アシスタントの鈴木環那女流二段、とゲスト棋士なので何か雰囲気が違う。実際両国将棋学術会員のイベントでこういうスタイルは初めてのようである。

…今回の事はブログに書くぞ、とは随分前から決めていたが、それと同時に「書き上がるまでの困難」を予想していた
以前も少し触れたが、ここでのトークにはとにかく「オフレコ」な話が多い特に今回は「これは両国限定で」とはっきりと箝口令(※3)が出された話もある(こんな事は初めてかも知れない)。
ここのようにほとんど読者のいないブログ(笑)であっても書いた内容が知らぬ間に拡散して関係者達に影響を及ぼす可能性があり得るので、他の人はいざ知らず、良識があるつもりの自分(…自分で言うな)は「これは書いたらまずそうだ」と思ったネタは「自主規制」してしまう。
そうやって書かれた記事はどうしても「毒気を抜かれた」「味気ない」ものになってしまうが、そこを少しでも「味」のあるものにしようとネタの選別、書き方には相当苦労している(その苦労を詰将棋創作に傾けろ、とか言われそうだ…)。
ちなみに「自主規制」したネタの中には
「別に書いても影響は出ないだろうけど、これをタダで聞こうだなんて厚かましだろう」
という判断で控えたネタもいくつかある(笑)。この辺を含めて「会費を払ってあの場にいた人の特権」という事でこの解説会の為に北海道や九州からはるばるやってくる人もいるくらいなので)。

最初は森下九段が壇上へ。パンフレット等にも藤井九段の名前が前にあるのでこちらが先かと思ったが、
「藤井先生は両国の解説会は初めてなのでどういうものなのか様子を見てからの方がいいでしょう」
という島九段の配慮(?)で森下九段が「先発」となった。

前回(7月の森内竜王の解説会、自分は参加していない)から棋士の解説の前に事前インタビューなどを基に作成された解説する局面につながる「朗読」が入るようになった。
これは演劇などの「ナレーション」のようなもの(だと思う)で、他にも適当な名称があるのかも知れないが、島九段が「朗読」と仰っていたので、今後も両国の解説会では「朗読」という名称で統一されると思う。
この朗読は1節当たり1000字くらい?(A4用紙に行間なしでほぼ1枚分)、鈴木環那女流二段によって読まれるが、慣れていないからか元よりこういうのが苦手なのか、かなり悪戦苦闘されていた。これが全部で6回(1人3節×2人)、お疲れ様でした。

森下システム。この戦法の概要を簡単に説明すると、「矢倉新24手組」からじっと▲6八角と上がり、
次の後手の手を見てからこちらの駒組みを決めようという戦法。わかりやすく言えば「後出しジャンケン」のようなものである。
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現代の相矢倉は先手の利を最大限に生かす▲3七銀が主流だが、隆盛期(平成3年~6年くらい)は「矢倉と言えば森下システム」と言われるほどだった。

森下システム誕生のきっかけとなった対局は平成2年7月10日(奇しくも?森下九段の誕生日)に指された▲淡路仁茂八段-△羽生善治竜王戦(段位・肩書きは当時)。
相矢倉で淡路八段が「完勝」とも言える指し回しで羽生竜王を押し切った一局に衝撃を受けてその将棋(戦法)の研究を始めた事、そのために古い将棋を見直していたら中原誠十六世名人が昭和50年代前半に旧24手組(▲2六歩△4三金右が入っている)から森下システムのような狙いと構想で▲6八角と上がる将棋を指していたなどはこの日の解説会以外でもいろいろなところ(例えば「森下卓の矢倉をマスター」など)で語られている。
ちなみにほぼ同じ時期に当時は「先手必勝」と言われていた「角換わり腰掛け銀同型(升田定跡)」で後手が快勝した(※4)事でその結論に「?」がつけられて棋士間での見直しが始まった(森下九段も研究に没頭した)、という話もされていた。

既出の事実でもこういう場で本人の口から語られると重みがあるというか、実感が深まるという感じがあるが、この日語られた「森下システムの真の姿」とでも言うべき話には会場の参加者のみならず島九段や藤井九段も驚いていたので、もしかしたら「本邦初公開」のネタだったのかも知れない
…詳しい事は「自主規制」とさせていただくが、仮に書いたとしてもこの手の話は本人以外が語っても説得力がないと思う

これ以外だと居飛車党、というより矢倉党の悩みとして
△8六歩の突き捨てに▲同歩と取るか▲同銀と取るか
という話、これは分かる人は多いと思う(自分もある程度はわかる…つもり)。
「こっちで取ると明らかに悪い」という場合は別としても、こういうところにも棋風というか性格が出るそうである。ちなみに自分は森下九段と同じで羽生名人と反対だった(笑)。

森下九段はかなり前に他の棋士から
「森下さんの強さは『悪力(あくりき)』ですね」
と言われた事があるそうである。
「悪力」って何ぞや? と思って帰宅後に調べたところ、主に囲碁の用語で「一見して筋の悪そうな手で相手をねじ伏せる力」という意味だそうである(普通の国語辞書には載っていなかった)。
…森下九段のイメージとはまるで正反対の言葉だが、この日の話を聞くとその意味が何となくわかったような気がする。昔はよく「弱いから序盤の研究をする」なんて事を言われたらしいが、森下九段はギリギリこの言葉を聞いて育った世代のようなので、その影響で世間からは「序盤研究の大家」とか言われている森下九段も本質・根底の部分では力将棋を好む(力将棋こそ将棋の本質と考えている)のかも知れない

休憩時間に森下九段に挨拶、というか先日の指導対局のお礼に。
「先日は東急将棋まつりで教えていただいてありがとうございます」
という感じでお礼を申し上げたら
「いえいえ、こちらこそ」
という感じで逆に恐縮されてしまった(笑)。
棋譜を並べ直して『▲○○○』と打ったのはやっぱりおかしかったかも、と思ったのですが」
という話をしたら
「いや、あれはいい手でしたよ。・・・(前後の脈絡を含めた説明。長い&図面がないと意味が通じないのでので割愛)」
2週間前の指導対局(しかも多面指し)の事を覚えていた事に驚きと嬉しさを感じた。あるいは自分が思っている以上に『▲○○○』は下手の手としてはインパクトがあったのかも知れない
22日に四ツ谷(ねこまど将棋教室・四ツ谷校)でも指導対局を行うのでよろしければ」
と言われたのだが、残念ながらその日は仕事。…悔しかった(笑)。

藤井九段にもいくつか尋ねてみた。
「何年か前のネット中継で『藤井九段は目を瞑っていても2八の飛車を掴んで▲6八飛と指せるに違いない』と書かれていたのですが本当にできますか」
…藤井九段は言うまでも無く当代随一の四間飛車の使い手で、▲6八(△4二)飛という手は修行時代や研究会なども含めれば5桁になんなんとするくらい指しているだろう、という事の喩えである事はもちろんわかるが、気になったので(もしかしたら本当にできるかも、というよりできそうなので)念のために(?)聞いてみた。
「…いや、それは無理です」
即答された(笑)。
「藤井九段は時折持駒を『貼る』といいますが、どこから来ているのでしょう」
藤井九段によると『貼る』は既存の言葉でいうところの『埋める』とほぼ同義語つまり守りの駒を打って自玉を固める場合に限った表現だそうである(電王戦の解説の『貼る』は角の王手に対する合駒に対して使ったし、渡辺二冠や鈴木八段の『貼る』も受けの手だった)。
控え室では結構いろいろな棋士が『貼る』を使っているそうだが(藤井九段自身は「最近はあまり言わなくなった」そうである)、最初に『貼る』を使い出したのは藤井九段ではなく…(以下自主規制。自分は藤井九段が元祖だと思っていた)

続いて藤井九段の登場。当然ながら藤井システムの解説…かと思いきや第1節は先月の順位戦、▲松尾歩七段-△藤井猛九段戦から。最近時折見かける初手より▲2六歩△3四歩▲2五歩(△3三角)という出だしについての話。
この出だしは形を決めさせる事で後手の作戦を限定できる、具体的には「横歩取り」「ゴキゲン中飛車」「角交換四間飛車」などを阻止する事ができるので、横歩取りはともかく)振り飛車党にとってはなかなか厄介な戦法らしいが、藤井九段の考え方は全く違うようで、一言で言うと「何故そう指すの?」だそうである。
将棋界に詳しい人なら分かると思うが、プロ棋士には振り飛車党より居飛車党の方が断然多い藤井九段に言わせると人数が多いという事は「対抗形(ゴキゲン中飛車や角交換四間飛車)の研究量も居飛車党のほうが多くなるはず」なので、「数的に優位な居飛車党がこういう(それらの手を未然に避ける)手を指す意味が理解できない」との事。ちなみにこの対局は藤井九段が9筋の端歩を突き越した後に△8四歩と「陽動居飛車(?)」になり、70手台の短手数で藤井九段が勝利している。

第2節、いよいよ(?)藤井システムの誕生・発動の話。
藤井システム居玉のまま四間飛車の陣形を組み、居飛車穴熊に組もうとする瞬間に攻めかかる具体的には下図から△1二香と穴熊を目指した瞬間に▲2五桂~▲4五歩と指す。将棋の格言では「居玉は避けよ」と教えるが、それに真っ向から反発する(笑)革命的な戦法である。
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藤井システムにも誕生のきっかけとなった将棋があり、この将棋についても話されたのだが(もしかしたら本邦初公開だったかも知れない)これはブログでは書かないほうが良さそう、と思ったので「自主規制」。ただ、この日出てきた話の中には「将棋世界」での連載「ぼくはこうして強くなった」(9月号から藤井九段の回が始まっている)にも載る(予定の)話もあるそうなので、ここで伏せてもそこで読めるかも知れない

藤井システムの研究にはいろいろと苦労があったそうである。中でも大変だったのが「一人で研究しないといけなかった事」との事。
ご承知のように「今までの戦法とは根本的に考え方の違う戦法」なので、情報漏洩の(事前に対策を練られてしまう)可能性を考えると研究会で(他の人と)の研究ができなかった、つまり全ての応手とその対策を自分一人で考えないといけなかったのである。
もしこれが現代だったら将棋ソフトが「情報漏洩の危険性がない研究相手」になってくれるので、今は実にいい時代になったものである(笑)。

紆余曲折?の末に藤井システムがデビューしたのは平成7年12月22日、第54期順位戦B級2組7回戦。相手はそれまでリーグ全勝の井上慶太六段(当時)。
この日の藤井六段(当時)はいつになく緊張していたと言い、その時絶好調だったと言える井上六段(※5)を僅か47手で投了に追い込み夕方の新幹線(関西将棋会館での対局だった)の中で… …いかん、口が滑らかになり過ぎている(笑)。
ただ、藤井システムに限らず新戦法はデビュー局での結果が今後を大きく左右する事が多く、藤井システムももし前述の対局で負けていたら「二度とやらなかったと思う」ので、それこそ20年過ぎた現在の将棋界(特に振り飛車党)にも大きな影響が出ていたかも知れない

前半の解説会パートが終わったのが17時30分頃、この時点で既に予定時間を1時間くらいオーバーしている(笑)。
後半は島九段を交えた3人でのトークショー。内容は主に「若手棋士の話」と「電王戦の話」になったが、
かなり「濃い」(あるいは「辛い」)話が多かったので詳細は書けない。

18時頃、解説会が終了する。本当は「もっとやりたかった」そうだが、会場の都合で18時で無念の(?)打ち切り「参加者からの質問コーナー」も時間切れで途中で終了。森下・藤井両九段に是非聞いてみたい話があったのだが…

比較的早い時間(?)に終わったので帰路は当初の予定通り東海道線下りを青春18きっぷで。それでも浜松に着いたのは2330頃、しかも掛川あたりからかなり強い雨が。これ以外でも今回の2泊3日(?)の旅程ではコロコロと天気が変わる落ち着かない空模様(東西に移動した事を考慮してもその変化はかなり極端だと思った)。特に最寄り駅からホテルに向かう時の土砂降りはつらかった(30分くらい後にはやんでいたのでタイミングが最悪だった)。
走破距離は3日間で1200kmくらい、乗車時間は16時間以上。…疲れた(笑)。
帰りの下り(特に熱海→浜松間)では本を読む気力すらなかった…のは昼食以降何も食べていない(食べる時間がなかった)せいかも知れないが。


※1…青春18きっぷ1回分の有効期間は電車特定区間(平たく言うと東京近郊・大阪近郊)を除いて24時を過ぎて最初に停車した駅まで」なので、これを過ぎるとやはり別途出費がかかってしまう。文中の「東京駅発車が1912(の東海道線)」というのもこれを考慮したものである(単純に「終電」ならもう30分ほど猶予があったし、そもそも新幹線なら最終が2200発である)。

※2…厳密には「あった」のだが、そのサークルの参加は初日(15日)だったので行けなかった。

※3…どうでもいい事かも知れないが、箝口令を英語では「gag」。冗談・駄洒落の「ギャグ」と同じ綴りである。

※4…対局者の名前はこの日出てきたので、それを基に後日調べたところ、その対局は平成2年11月の▲森内俊之五段-△中田宏樹五段戦(段位は当時)だと思われる。

※5…この期の井上六段はこの対局以外は全て勝ち9勝1敗でB1に昇級(&七段に昇段)、次期のB1も1期抜けでA級八段になっている。