DJカートン.mmix

それって早い話「金儲けのための忖度」って事では。

「国葬のようなもの」の話

自分は国葬のようなもの」の開催に賛同していないので【*1】それに関するニュースとかはあまり見ていない(その時間帯は普通に勤務中だったのでリアルタイムで見ていないし、今回の記事も書くだけ書いてしばらく放置していた…)。…葬儀の時間に札幌の市街地で「国葬反対!」と叫んでいる人がいたのは覚えているが、後藤隊長の口調で)何だかなぁ~」以外の感想を抱けなかった(叫ぶ場所が違うだろう)それでもエリザベス2世の「国葬」とは比較してしまうし、車屋が渋滞を引き起こすなんて洒落にならん」と言って葬儀(社葬)を出させなかった本田宗一郎とも比較したくなってしまう。

 

国葬のようなもの」で菅前総理が読み上げた弔辞について「電通が・・・」と言った人が吊し上げられているが、自分は正直そんなのどうでもいいと思っている【*2】。自分はそれよりも

安倍さんへの弔辞は立派だったけど原爆被災者の慰霊式では噛みまくっていたよね

という指摘(正確な文言は微妙に違うかも)の方が重要(?)だと思う。

 

…心理学に言わせると、このようなスピーチで間違えまくる(読み間違い・読み飛ばしなど)のは偶然などではなく、ただ一言

本心ではないから

だそうで、つまり「原爆被災者への慰霊は『本心ではない』」事が読み取れるというわけ。この国はそういう奴が総理をやっているんですよ。

…少し前に送迎バスに子供を放置して死なせた園の記者会見で「亡くなられた子の名前を間違えまくる」というトンデモナイ事があったが、これも同じ話(つまり全く反省していないし反省する気がない)もし(このロジックを承知している)自分がこの事件の遺族だったら激昂して

このようなクズ、生きていても何の役にも立たないからこいつの首を娘の霊前に供えて供養にしてやる!

とか言いかねない。

 

逆に言うと「本心だから」心がこもる=見事な?弔辞になった、とも言えるし、そもそも「重要な人物の弔辞の文面を他人に委ねるなんて事はしない」のではないか、とも思う(日時が決まってから当日まで時間があったので「考える時間」は十分にあった)。だから「瞬間的に」あの弔辞に感動した人(乱暴な言い方をすると「騙された人」)が多かったのかも知れない。

人は誰であれ遅かれ早かれ「いずれ死ぬ」ので、「葬儀をする事」も「そこで立派な(?)弔辞を読む事」も否定はしない(というかできない)が、今回の「国葬のようなもの」はそれ以外のところが…ねぇ。

 

弔辞というと銀河英雄伝説

「俺は奴(オーベルシュタイン)の葬儀のときに、心にもない弔辞を読んで心で舌を出してやる、それが楽しみで今日まで戦死せずにきたのだからな」

というセリフがあったが、この発言者(コルネリアス・ルッツ)の方が先に死んでしまって実現せず。もし実現していたら(オーベルシュタインはルッツの9か月後くらいに死んでいる)一体どんな弔辞が読まれていたのだろう、とくだらん想像をしてしまう。

*1:理由はいくつかあるが、その最大の理由は「安倍晋三国葬に値するだけの業績を残していない」。この国で「国葬に値する政治家」がいるとすればそれは「北方領土の完全返還を実現させた人」か「北朝鮮拉致問題を完全解決させた人」のどちらかしかいないと思っている。

*2:そう思いたくなる「土壌」がある(しかもそれを育んだのは「あっち」である)からそう考える人が出てくる…別に不思議な事ではないと思う。それを公言していいかは別問題だが。