DJカートン.mmix

それって早い話「金儲けのための忖度」って事では。

30代はコーチ

囲碁界で「9歳のプロ棋士が誕生」というニュース。国内最年少な上に「世界最年少」らしい。…システムが大きく違う将棋界(将棋界は「四段でプロ」だが囲碁界は「初段でプロ」)と比べるのはあまり意味がないでしょう。

 

…このニュースを見た時に思い浮かんだのがタイトルの言葉。これだけだと意味がさっぱり分からない(というか読んだ人の8割くらいは鞄のブランドの「COACH」を想像しそうである)が、森下卓九段によると「韓国の囲碁界について述べた言葉」らしい【*1】。

分かりやすく(?)言うなら、韓国の囲碁界では「『プレイヤー』としてのピークは20代まで」30代になったら第一線を退いて次世代の「コーチ」になるべき、という考え方のようである。ここで言う「第一線」というのは主に国際棋戦についての事らしいが【*2】、韓国(と中国)の囲碁界はここに賭ける意気込みが半端ではなく(国を挙げて英才教育を行っている)、その上「国際棋戦で優勝した人は徴兵を免除される」らしいので参戦する棋士の意気込みも半端じゃない(ほとんど殺気立っている)とか。

 

最近はいろいろな業界で「ピークの若年化」が進んでいるように思う。業界によっては「30代は完全に出涸らし」というような話も聞く(主にe-スポーツ?)。…人生のピークを20歳前後で迎えたら「残りの4分の3」をどうするのだろう、と思う。中には上手くやっていく人もいるだろうが【*3】、一方で「破滅」する(あるいはそれに近い状態になる)人も少なくない(所謂「子役タレント」のその後を見れば分かるのではないか)と思う。

若くして業績を残す人というのは物心ついた頃から「その業界」しか知らずに生きてきたので往々にして「世間知らず」な事が多い、というのは今更言う事でもない。ただ、世間知らずで済むならいいが最近は「モラルが欠如している」人が多いように見受けられる。おそらくは教育する側が結果を残す事(でもたらされる「名誉」と「金」)ばかりを重視してモラルの類を軽視してきた「ツケ」なのだろうが、ピークをより若年化させようとしたらモラルを育む時間が「物理的・理論的に」なくなる、というのはちょっと考えれば誰でもわかる。

しかも日本棋院は数年前から「英才教育制度」みたいなもの(正式名称何だっけ?)を導入している(前述の「藤田怜央初段」や「仲邑菫二段」もこの制度出身)…この制度(で誕生した棋士)は

日本棋院がモラルの教育を放棄した

のではないか? と思ってしまう。確かに国際棋戦では韓・中の後塵を拝しているというが【*4】、個人的には

モラルを捨ててまで張り合う事なのか?

と思ってしまう【*5】。

今のところ将棋界は「業界自体がモラルを放棄している」ところまでは行っていないようだが(対人の研究会を放棄して「COMで勉強」、という昨今の流行は正直「危ない」ようにも思えるが…)、もし将棋界まで同様の道をたどり出したらいよいよもって「将棋界にも絶望」してしまう。種目を問わず

「モラルを放棄してでもピークを若年化しないといけない業界」なんてのはそれこそ「なくてもいい商売」

だと思う。

*1:数年前のイベントで仰っていた(森下九段は囲碁界の関係者にも交友関係が広い)。「30代」の部分が微妙に違う(記憶違いをしている)可能性もあるが…

*2:なので30代でも国際棋戦で活躍した李昌鎬(イ・チャンホ)は関係者に言わせると「化け物」なんだとか…

*3:囲碁は将棋と比べると「政財界にパトロンが多い」ので、「上客」を見つけられればコーチとして食っていける確率は低くない、なんて話を聞いた記憶がある。

*4:あの井山裕太をもってしても「世界のトップ10」に及ばない、と言われる。…どうでもいいけど「今の井山裕太の肩書って何だっけ?」と思う。かつては「今の羽生善治の肩書って何だっけ?」と思う人が(将棋界にも)少なくなかったが…

*5:なんでも韓・中では「結果を出せなかったら海に飛び込んで死ね」とまで言われるらしい(本当に飛び込んだ人がいるのかは知らない)。…そんな事を言う人(国)が年少の棋士にモラルを教育しているようにはとても思えない。

詰パラ8月号とその他

藤井聡太が(A級順位戦で)負けたことを祝して明日(11日)はラーメンを食べに行こう!

 

…冗談としてはあまり面白くない(だったら書くな)。

確かに11日に「さんぱち」でラーメンを食べたのは事実だが、ラーメンを食べに行こうと思った理由は藤井聡太とは全く関係なく、「さんぱちは毎月11日と24日は『さんぱちデー』で一部のラーメンが安い*1、ただそれだけの理由。今回は翌日がたまたま11日だった(&休みで出かける予定だったのでさんぱちで昼飯を食べた)、というだけ。本当に「祝する」つもりだったら「100g1280円の和牛」とかを食べますから(笑)。

ちなみに「さんぱちデー」は曜日とかは関係なしに日付だけで決まるので、今回のように祝日(や日曜日)だと滅茶苦茶混む(下手すりゃ1時間くらい待たされる)ので行くタイミングが難しいし、平日だとそもそも行けるかどうかも怪しい(他の飲食店でも「日付のみでサービスデーを決めている」ところは同じようなものでしょう)。

 

詰パラ8月号が届いた後に

「今月で購読やめるから残りの購読料返せ」

と思った時間帯があった(…1時間くらい)。実際にそんな事ができるのかは知らないけど。

8月号が届いたのが2日(1日は平日)。…今回は日本を襲った大雨(「コロナ及びそれに付随するJPの対応」と比べるとはるかに予想しにくい)が物流などにも影響を及ぼした可能性がある(北海道はあまり被害がないので実感がない…)もっとも(ニュースで天候不順の可能性を知る事は可能であるので)「超A級の経営者」だったら天候不順(による遅配)の可能性も考慮したスケジュールを組むのだろうが、詰パラ編集部のような普通の会社(ここでは「不特定多数の客」を「原則平等に扱う必要がある」会社、という意味)でそんな事をしようとしたら関係者全員が過労死しかねない(ので無理な注文という奴であろう)

 

彩棋会作品展の解答稿。これを読んで拙作の「改作案に何と書いてあったのか」がようやく解読できた(笑)。

「こんな感じでまとめたかった」という自分の想いをサラッと(?)実現させてしまうのだから、

「世の中にはナーシャ・ジベリ*2みたいな人が他にもいるんだなぁ」

と思った。

 

将棋パズル雑談の79についての感想は

こんな面倒くさい(補足で1ページの半分以上も使うような)問題なんか出すなよ

もし作者が『他の人』だったら999‰不採用だっただろうな

前者は「意味がわかっていない読者が多そう(結果として解答者減少を招きかねない?)という理由から、後者は完全な皮肉(笑)

自分は多分理解できたつもりだが、理解したらしたで直後に「これは検証が大変そうだ」という事に気づく。

また78についても問題文中の「なお歩7枚は必要な枚数を「と金」として配置してもよいが、先手は玉以外に1枚しか配置してはならない

『…何を?』

と思った。具体的に言うとこの書き方だと

先手の「と金」は1枚しか配置してはならない(先手の歩は何枚あってもよい)

先手の玉以外の駒は1枚しか配置してはならない(残りの6枚は後手の駒として配置する)

2通りの解釈ができてしまう。屁理屈と思われるかも知れないが、こういった「誤認の可能性がある文言」には過敏になってしまう(多分仕事柄のせい)

 

ちなみに将棋パズル雑談の79は「検証するための気力が続かなさそう」と直感したのでもう考えていない(というか「直感で出した答え」で既に解答済だったり)。

*1:「さん」+「ぱち」=11、「さん」×「ぱち」=24、というのが理由らしい。また毎年「3月8日」と「8月3日」もサービスデーになっている。

*2:イラン出身(なんと王族らしい)のプログラマー。代表作は「ファイナルファンタジーファミコン版の1~3)」。ファミコンのスペックの限界を超えたような、あるいは「バグを逆手に取った」挙動を実現させたり、バグの症状を聞いたナーシャが「電話口で修正箇所・方法を指示して」バグを直した、などの逸話がある、まさに掛け値無しの「天才プログラマー」。

医療従事者に落語は通じない?

7月31日、柳家さん喬 柳家権太楼 二人会」。ゴン様は何度か寄席で聴いているが、さん喬の落語を寄席で聴くのは意外にも(?)今回が初めて。

二人とも五代目柳家小さん門下【*1】の実力派で、分かりやすく(?)言うなら「静のさん喬、動の権太楼*2という感じだろうか。タイプは違うが親交は深く、二人会は40年くらい(!)続いているそうである。

この日の演目は

猫と金魚   権之助(権太楼門下)

火焔太鼓   権太楼

船徳     さん喬

(中入り)

ちりとてちん さん喬

疝気の虫   権太楼

 

権太楼は今年の初めにコロナにかかって入院したそうで、その時のエピソードが一席目の枕。入院(≒隔離)時につらかった事として「トイレにも自由に行けなかった」事を挙げていた。トイレに行きたくなったらまずナースコールを使い、看護師が来たらまず名前を聞かれる*3】。続いて「生年月日を言って下さい」と言われたので

 

「せーねんがっぴ!!」

 

医療従事者に洒落は通じませんでした(笑)。別に「医療従事者だから」というわけではなく、単に「元ネタを知らないだけ」なんだろうけど【*4】。

この日はさん喬が「高座返し」を行うという非常にレアなシーンを見られた【*5】。どういう意図だったのかは分からないが会場からは笑いと拍手。

「疝気の虫」という噺はこの日初めて聴いた。「疝気(泌尿器系の病気の総称)」は虫が体内に入り込んで起こす病、というSFチックな?設定【*6】の噺なのだが、「内容的にTVとかでは放送しにくい」ので知っている人は少なそうな気が。

 

…やっぱり落語はええのぉ。

*1:権太楼は五代目柳家つばめ(こちらも五代目小さん門下)の門下だったが師匠の急逝により小さん門下に移った。

*2:さん喬は「人情噺をじっくり聴かせる」、権太楼は「滑稽噺で力技で笑わせる」スタイル。

*3:柳家権太楼の本名は「梅原健治」。…初めて知った時「同じ『うめはら』でもこうも違うのかねぇ…」と思った(姻戚関係はないらしいが…)。

*4:この日道新ホールにいた客のほとんどは「意味がわかっていた」と思う。

*5:次の演者のために座布団をひっくり返し「めくり」を次の演者のものにする、通常は前座(この日だったら権之助、前半は普通に高座返しをやっていた)のお仕事。

*6:かつては本当に「疝気が起きるのは虫のせい」と思われていた時代があったそうだ。

悪魔の封印はダイヤルロックでできている

安倍晋三氏の事件はいろいろな方面に波紋を広げているようだ。そもそも自分は国会議員はほぼ全員嫌い(というか信用していない)だが、だからと言って「このような死に方」を強要されるほど罪深い人でもなかった、とも思う【*1】。

 

ひろゆきあたりは「こういう輩はいずれ出てくる」と予想していたらしいが、自分に言わせれば「30年くらい前」からこういう事件が起きる可能性は予想できた(てめえらとは「読みの深さ」が違うんだよ、なんてね)それ故「今の今までこういう事件がほとんどなかった事が不思議だ」と思った。…そう考えるようになった「きっかけ」はブログで書くには過激な話なので控えさせていただくが。

 

「卑劣な犯行」と切り捨てる人が多い中で

何故このような犯罪が起きたのか考えないといけない

という主張は全くもってそのとおりだと思う。

「こんな事をする人には見えなかった」

という話はこの手の事件が起きるとほぼ100%聞かれるが、世の中「生まれた時から残虐な性格」なんて人間は聞いた事がない。つまり何かの「スイッチ」が入って人間が豹変してしまう、というのがほとんど。そしてこういう事は「誰にでも起きうる」という点を気づいていない人があまりに多い。勿論容疑者を「さっさと死刑にしろ」とか騒ぎ立てる奴にも起きうる(というかそういう奴の方が危なくないか?)。

 

そこでタイトルについて。ダイヤルロックというのは誰でも分かると思うが、この場合それぞれの「桁」は「ネガティブな要素」と置き換えていただきたい。例えば「身体」「精神」「経済」「社会的地位」その他・・・ 

これらの桁が全て「開錠位置」で揃った瞬間に「悪魔の封印」は解けてこのような事件を起こす「悪魔」が世に現れる

…というのが心理メカニズムとして分かりやすいのではなかろうか。だから「悪魔の封印はダイヤルロックでできている」のである。なおこれは「自殺」に関しても全く同じメカニズムが働いていると言える(早い話、表面化する結末が「自殺」か「他殺」か、の差でしかない)。

知ってのとおりダイヤルロックというのは全ての桁が開錠位置に揃わないと開かない。そして開かない状態と言っても「いくつの桁が開錠位置なのかは分からない」。つまり「全ての桁が開錠位置ではない」かも知れないし、「1桁を除いて開錠位置に揃っている」かも知れない。だから「こんな事をするような人には見えない」わけで、今回も何かがきっかけで「最後の桁」も揃ってしまったのだろう。一方でダイヤルロックというのは1ヶ所でも開錠位置からズレていれば開かないわけで、例えば最後の「要因A」が揃ってしまう前に「要因B」が解決(開錠位置から動かす事が)できれば封印は解けずに済む。つまり「悪魔の開放」は本当に紙一重のタイミングで起きてしまうのである。…1年くらい前に「封印が解けそうになった」自分が言うのだから間違いない。

 

何が鍵の要素となっているか(そして「何桁」あるか)は個人差があるだろうが、「生活の不安」はほとんどの人にとって「鍵」になっているはずである。つまり「貧困に苦しむ人が減ればこのような『悪魔』が世に放たれる可能性も減る」という理屈は屁理屈でもこじ付けでもない。なので

今回のような事件(や一向に減る気配がない自殺)が起きる原因は「政府(というか自民党?)」にもその一端がある*2

別の言い方をするなら

今回の事件を「卑劣な犯行」とだけ言って切り捨てている(原因を考えようとしない)奴がいる限りこの手の事件がいくらでも起きる

と断言してもいいだろう【*3】。まして「前例」ができた事で「模倣する奴が出てきやすくなった」だろうから(勿論日本人の性格を皮肉っている)。

…さて、あなたの「封印」は大丈夫ですか? と聞かれたところでほとんどの人は答えられないだろう。そもそも大半の人は「自分は悪魔など飼っていない」と思い込んでいるだろうから(しかし「それはない」)。

 

今回の参議院選挙は今回の事件で「同情票*4」を得た自民党が圧勝するだろうが(この記事を書いているのは日曜日の午前中)、そうなった場合安倍晋三氏の命と引き換えに議席を獲得した」という解釈もできるので、自民党内には安倍氏の死を喜んでいる輩がいるのではないか?」と勘繰ってしまう(特に「反・安倍派」にしてみれば「厄介者が消えた」事でまさに「一石二鳥」だろうから)。

 

…不謹慎な話だが、同じように考える人はいるだろうから書いてしまえ(笑)。

 

※後日加筆。「悪魔の開放」はネガティブな要素(の積み重ね)で、と書いたが、どうやら「ポジティブな要素(の積み重ね)」でも起きる可能性はあるらしい。分かりやすい例としては「己の器をはるかに上回る力(地位や金とかも含む)を手にした人」とか。今の日本にも「やばそうな人」が思い浮かぶんだよなぁ…

*1:現役の国会議員に的を絞っても安倍氏以上に「このような死に方を強要されてもいい」(≒犯した愚行を「命をもって償う」べき?)議員が思い浮かぶのではないか。敢えて名は出さないが。

*2:中には政治などとは関係ないところで「自爆同然」の行為で封印を解いてしまう奴(例えばギャンブルにハマって借金苦、とか)もいるだろうから、全てを政府のせいにもできないが。

*3:「暴力には屈しない」なんて言うといい事言っているようにも見えるが、実際のところはそれもこれと同じ、言わば「思考停止」にしか思えない。

*4:彩棋会でもこの言葉を使ったが、「同情票という言い方でいいんですかね?」と言ったら「同情票でしょう」と言われた。

22年7月の彩棋会

…タイトルのとおり。参加者は9人(諸事情で早退された方も含む)、うち道外から3人。翌日は香龍会があるはずの岩本氏も参加。…この根性は並大抵の人では真似できないと思った。翌日(10日)の早朝に名古屋へ発つという事だが、9日の宿泊に苦慮した(名古屋でホテルが取れなかった)結果だそうで。自分は選挙関係者に占拠されたんじゃないか?」と思ったが実際はどうなのだろう【*1】。

 

5月号に掲載された作品展の「解答の束」があった。という事は当然ながら拙作への論評も書かれているわけで。

以前も書いたが、送られてくる「紙」も様々で、便箋、普通紙、官製はがき、チラシの裏 1問のみの解答もちらほら。ABC評価を書いている解答者も。彩棋会作品展では点数評価はないので、「いつもの癖で」書かれているのだろうか。…拙作は「A」だった(笑)。

拙作については、「収束が長い」割には意外に好意的な評価が多かった(詳細は8月号に載るはずなのでそちらを参照してください)途中の「一撃」がこちらの想像以上に効果があったようで。勿論低評価もあり、中には「改良案」も示してくれたものもあったが、図面はともかく「文章が独特のフォントでほとんど読めなかった」(笑)。

 

今回の作品展「小駒の不成」、結局出品はできず(笑)。北村氏の候補作の1つは当初の「谷川浩司十七世名人襲名記念(17世名人にちなんで「盤上初形17枚」)」だったそうだが、「この手数だと誰も応募してくれない」という事で実際に掲載された作品(7月号49ページ)に差し替えた、という事らしい。なおその作品は「次回の段位認定問題」に使うとか使わないとか。他の参加者からは「次回の段位認定は三段(全問正解)が減りそう」。

 

次回の作品展テーマは「初形に成駒なし」。…これなら「在庫」の中に適したものがあるかも知れない(本当かよ…)。「800手作品展」にも参加したいので合わせて「何かないか」考えようと思っているが…

 

終わった後は例のごとく雑談。来年の全国大会については開催地も(順延として名古屋地区なのか、あるいは返上して東京地区なのか、というところから)まだ決まっていない模様。ぶっちゃけ最近の「イベント開催状況」から考えると「今年の全国大会も実施できたんじゃないか?」という声もあったが、以前も書いたように藤井聡太目当てで駆けつけるマスコミや『俄か』」が押し掛ける可能性があり【*2】、そんな状況下で万一集団感染でも発生したら最悪「全詰連が抹殺されかねない」ので踏み切れなかった、というのが本音かも知れない。

安倍晋三氏の話にもちょっとだけなった。文字通り「ちょっとだけ」なのであまり深刻な話はなかったが、「今は銃器(のようなもの)を簡単に作れる時代になってしまったからなぁ」という話に。

ここから派生(?)して「プロのモラル」の話にも。最近は野球やサッカーの選手でも「不祥事」が相次いでおり、「教育はどうなってんだ」という話に。そう考えると将棋や囲碁棋士(養成機関でモラルの教育も受けている…はず)は「最後の砦」かも知れない(「eスポーツ」「プロゲーマー」なんてのは端から論外)⇒この「砦」が崩れたら「プロの選手」という概念自体が崩壊するかも知れない、と強弁したのは自分(笑)。

 

次回の彩棋会は11月。上旬という事であれば5日(土)が有力か。帰りに谷川浩司 精選詰将棋を買って帰る。…1問目から難しいのだけど(笑)。

*1:「ホテルなんかに泊まらず選挙事務所で寝泊まりしやがれ!」と言ったらウケた(笑)。

*2:以前も書いたが王位戦の真っ最中にこんなところに顔を出すほど藤井聡太は「暇じゃない」だろうに…(その程度の事も分からない輩が押し寄せてくる)

三国志を正史の視点で・4

三国志の事実上のスタート地点と言える黄巾の乱が起こったのは184年。その時代の漢の皇帝は12代目の「霊帝(156?~189、在位期間168~189)であった。この頃(というか後漢の時代の大半)外戚と宦官の権力争いが盛んであったが、即位の直前と直後に起きた党錮の禁(166、169)によって反宦官派が一掃された【*1】事で三国志の冒頭でも語られる「宦官に因る腐敗政治」の時代となっていた。

 

霊帝は世の中がおかしい事に全く気付かなかったのか?」

と怒りたくもなるが、即位当時の霊帝は12歳くらい【*2】、しかも元々は地方で暮らす皇族だったのが先代(桓帝)の急逝で急遽擁立された、という経緯なので言ってみれば「世間知らず」。宦官はそこに付け込み、世が乱れに乱れている(その原因の90%以上はその宦官が作った、と言っても過言ではない)にも関わらず

「陛下の御威光で今日も天下は泰平です」

と騙し続けててめぇらは私利私欲に走り(というか「溺れ」)まくっている。

そういった個人の力ではどうにもならない(?)事情はあったものの、そういう事を抜きにした本人の才覚はどうだったかと言うと「宮殿内で『お店屋さんごっこ』に興じていた」という記録があるので、早い話「アホだった」と言っても過言ではない。

もう一つ霊帝がアホであった事を証明できる(?)事に「売官制」の実施というのがある。…いつの世でも地位や官職を得るために金をばら撒くアホは絶滅しないが、霊帝「官職を金で売買する事を法的に認める」という事をやらかしている。もっとも売官自体はこの時代以外にも(それこそ日本でも)行われていたが、霊帝の場合政治の3トップである「三公*3」をも売官の対象としたあたりやはり「アホ」だと思う。何と言っても「欲の化け物と化した宦官に政治を放り投げて遊興に身を投じていた」人間だったら「他にやるべき事があった」はずなのだから… ちなみに売官で三公の地位を買った人間の一人に曹操の父である曹嵩がいる【*4】。

 

当時の中国の事情や古今東西を問わず、「金で地位・権力を買った人間が『まっとうな政治をする』可能性」はどれだけあるだろうか。別の言い方をするなら「私財を投げ打ってでも庶民の生活の改善に砕身しようとする高潔な人」は一体何人いるだろうか。

まぁ普通に考えれば「そんな酔狂な人はまずいない」。0ではないとは思うが、そのほとんどは

「民衆の生活」なんかよりも「自分がその地位を得るために使った金を取り戻す事(そしてそれ以上稼ぐ事)」しか考えない

に決まっている。

 

奇しくも(?)今の日本は参議院選挙の公示期間。耳障りでしかない選挙運動を聞きながらこの記事を書いているわけだが、こういう記事を書きながらだと「今の議員の中にもそんな輩は多いんだろうな」、と思わざるを得ない。

詳しい事は知らないが、日本の選挙というのは「何だかんだでやたらと金がかかっている」ように見える。そして「報酬が高い(確か年額で『2180万円』だったっけ?)上に「役得(政治献金とか議員特権とか)がある」とあっちゃあ「高い金を払ってでも選挙に出たがる人」がいても不思議ではないな、と思って(呆れて?)しまう【*5】。それこそ行われているのは選挙の皮を被った「議席のオークション(ただし落札できなかった場合でも入札金は帰ってこない)」ではないか、とすら思ってしまう(実際には費やした費用の多寡で当落が決まるわけではないだろうけど)。

 

…この国の「惨状」を解決しようとするならそれこそ「大金を投入してでも議員になりたくなるようなシステム(高給とか特権とか)を改善するところから始めないとダメなのかも知れない。ただしそれを「民主制的なやり方」で改善しようとすると最低でも50年くらいはかかりそう(それ以前に「特権にしがみつくハイエナどもの妨害」によって永遠に実現しない可能性が高い)し、君主制的なやり方」ならそれこそ1年かからない可能性もあるが「別の理由(以前の記事を参照)」で推奨できない。自民党が灰燼に帰すような出来事でもあればまた違うのかも知れないが、ついこの前も自民党をぶっ壊す!」とか大言を吐いた輩がいた割には全然ぶっ壊れていないように思うし

*1:字面から勘違いされやすいが、この時反宦官派は「追放された」のがほとんどで、本当に投獄された人はほとんどいなかったようだ。

*2:後漢の歴代皇帝の中では「これでも年長の部類」で、三国志の時代の「献帝」は即位時9歳だったし、霊帝以前には「満1歳未満」で即位した(というか「させられた」)上に1年未満で暗殺された皇帝もいたほど。

*3:太尉(軍事)・司徒(行政)・司空(土木)。司徒、司空の担当は史料によって異なる事もある。

*4:太尉を「一億銭」で買った、とされる。「銭」が今の貨幣価値でどれほどなのかはよく分からないが、同じ三公の地位を「500万銭」で買った人もいたのでトンデモナイ金額なのは想像できる。

*5:もっとも選挙資金のほとんどは本人ではなく「後援者」が出しているので「本人の懐は大して痛まない」のだろうけど…

三国志を正史の視点で・3

英雄を批判する人は人格的に劣悪である

 

…そんな風に決めつけている人間をやたらと見かけるように思う。例えば藤井聡太を批判した芸能人、大谷翔平を評価しない評論家、佐々木朗希の態度に腹を立てて詰め寄った球審*1】、その他… 今の世の中そういう人は一人残らずネット上で悪人にされていると言っても過言ではない。

…自分は「アホの極み」だと思った。そしてそれ以上に(思想的に)非常に危険な存在」だと思う。勿論そういう人をネットで叩いている(悪人と決めつけている)輩が。自分が好きなもの(人)を批判する人間に腹が立つのは分からなくもないが、何故「人格的に劣悪である」と決めつけられるのか、その思考回路が全く理解できない。理解しようと思ったら「IQを30くらい下げないといけない」ような気もしてしまう。

 

そういう輩(考え)はネット社会の副産物、と思われそうだが、同じように考える人は昔からいたようである。

三国志に出てくる武将、魏延(字は文長)。…おそらく彼に対し「いいイメージ」を持っている人は少ない、それこそ「(呂布と同レベルで)簡単に裏切る人」というイメージを持っている人が多そうである【*2】。真・三國無双シリーズでも「『てにをは』を使えない(例えば「我…攻メル!」みたいなセリフを言う)変な人」というおかしなキャラが定着してしまっている。

答えから言ってしまうと世間に知られている魏延のキャラの「9割は演義の創作」。諸葛亮の死後まもなくのゴタゴタで馬岱に斬られた、というのは事実だが【*3】、正史で見る限りあれは「魏延の謀反」というより「楊儀との権力争い・個人的確執」でしかないと思う。

そもそも演義魏延は登場する時から扱いがおかしい。長沙の韓玄の下に仕えていたが(正史ではいつから劉備に仕えたのか不明)、劉備の南郡平定の際に韓玄の暴政(普段から悪政を敷いていた上に黄忠を「内通していると決めつけて」処刑しようとした)に耐えかねて彼を殺して降伏した、となっている【*4】。

ところがこの時諸葛亮魏延に対し「簡単に主君を殺すような奴は信用できないから今ここで処刑すべき」劉備に進言する(が劉備はそれを採用せず魏延を登用した)。…演義だとこの直前に武陵太守の金旋を殺して降伏してきた鞏志(きょうし)という人物がいるが【*5】、何故かこちらには処刑を進言していない。またこの前後でも「主君を殺して降伏してきた人」は幾人かいるが、諸葛亮が処刑を進言したのは魏延ただ一人。…何故?

他にも第5次北伐では「独断で兵を動かして損害を出した」とか【*6】、「彼を囮として司馬懿もろとも焼き殺そうとした」とか、諸葛亮の延命の祈祷中にその祭壇を壊した」とか(勿論どちらも演義の創作)、最期にしても諸葛亮の死を待っていたかのように反乱を起こした(しかも諸葛亮はそれを確信していて彼を謀殺するための策まで用意していた)ように描かれ、まぁとにかく扱いが酷い。しかも「酷い扱い」は後世にも受け継がれ(?)、有名な武将の墓は今でも大半が残っている一方で魏延の墓は「破壊された」上に「今はその上を鉄道が走っている」とも言われている。

確かに魏延は人格者ではなかったかも知れないが、その武勇は五虎大将軍*7にも匹敵するものだったし、多くの功績によって昇進もしている*8】。

 

…では何故魏延はこれほどまでに酷い扱いを受けるのか? 考えられる答えは1つしかない。

魏延は第1次北伐の際、諸葛亮子午谷(魏と蜀の間に聳える「秦嶺山脈」を抜ける街道の内、漢中→長安を最短距離で目指せるルート)を通って長安へ迫る作戦を提案したが却下された*9】。この時魏延

諸葛亮が臆病なせいで自分の能力が発揮できない

と周囲に漏らした、と伝えられる。

 

…ここまで書けば勘のいい人なら気づくであろう。孔明様(笑)を崇拝する羅貫中にしてみたらこのような発言をする魏延の事は

孔明様に楯突く痴れ者

と思ったに違いない。つまり

「痴れ者」だから「人格的に劣悪であったに決まっている」…という「ネトウヨ的思考(?)」で今日に知れ渡るおかしな魏延像ができあがった

のである(異論は認めない)。これが諸葛亮と所属が異なる曹操とか周瑜とかならともかく(この2人も羅貫中によって「人格を捻じ曲げられた被害者」の代表格と言える)、同じ陣営に属する魏延がこうも「人格的に劣悪だった」かのように描かれるのだからどう考えても羅貫中の「私情」以外の何物でもあるまい*10

じゃあその魏延を除く立役者(?)となった楊儀(字は威公)は人格者だった(あるいは「人格者として描かれた」)のかと言うと…さにあらず。正史によると事務処理能力に優れていた(ので諸葛亮の補佐役として北伐に随行していた)「狭量でプライドが高かった」とある(どことなく馬謖に似たものがあるような…?)。そして何より、魏延の死後魏延の首に向かって

「庸奴(アホとか間抜けとかの意味)め、もう一度悪さができるものならやってみろ!」

と叫ぶとその首を足で踏みつけた、とある(演義ではカットされている)ので、どう考えても楊儀の方が「人格的に劣悪」だった、としか思えない。またその最期も諸葛亮の死後閑職に回された」事に不満を抱き*11】、ついには「こんな事なら魏に亡命していればよかった」とまで漏らした事が劉禅の耳に入ったことで「平民に落とされた上で流罪(その後自殺)となっている。演義でも正史とほぼ同じ結末であり【*12】、諸葛亮の遺言に不満を漏らした」事で羅貫中も擁護(?)しなかったようだ【*13】。

 

…そんなわけで「アホ」で「危険な」考えをしていた人は少なくとも500年前には存在していた事になる。もし魏延の子孫が現存していたら今頃筆舌に尽くせないような仕打ちを受けていたかも知れない。だから「英雄を批判する人は人格的に劣悪である」と決めつけるのは「危険な思想」なのである。なお幸いにして?魏延の一族は前述の「内乱」の時に族滅されたようなので魏延の子孫は現存していない」らしいが【*14】。

*1:個人的には「あれをするくらいなら即座に『審判への侮辱行為で退場』を宣告すべきだった」と思ったが…

*2:そのせいか「三國志」シリーズでは「忠誠度100でも簡単に裏切る」というマスクデータを持っている事すらある。

*3:ただし正史では「馬岱に関する記述がこれしかない(馬岱の字が不明なのはそれが理由)」し、諸葛亮が生前に仕込んだ「私を倒せる者があるか」と3回叫ばせるのももちろんフィクション。

*4:正史では南郡平定自体が「結果だけ書いて終わり」とそっけない。一応それでは「韓玄は降伏した」となっている。また魏に仕えた韓浩の兄という設定も演義特有のもの。

*5:正史だと「金旋は討死」とあるだけ。

*6:正史だと「諸葛亮の指示で動いたが司馬懿に先手を打たれていた」と扱いが正反対。

*7:実在した官職ではなく、おそらくは「関羽張飛趙雲黄忠馬超の5人が1つの伝となっている」事から創作された称号。正史では趙雲を除く4人が「前後左右将軍」に任命されている。なお演義だと五虎大将軍就任に際し関羽が「(新参者の)黄忠馬超と同格の官職などいらん」とごねているが、実は正史でも同様にごねている。

*8:「前軍師」という(武闘派だった魏延の)イメージが全くできないような官職にも就いている。

*9:実際は「孟達が『出戻り』してきたら(前回の記事を参照)彼にそのルートを任せる予定だった」がこの事は言わば「トップシークレット」だったのでほとんどの人間が(魏延も)知らなかった、という可能性もある。

*10:そう考えると韓玄も「魏延を人格的劣悪者に仕立て上げるための道具」にされた「被害者」と言える(前述のように「正史では降伏」しているので)。

*11:生前の諸葛亮楊儀の性格を問題視してそのように遺言していた、と言われる。

*12:正史では「流刑先から他人を過激な言葉で誹謗する手紙を宮中に送り続けた」とある。…魏延が人格者に見えてしまいそうだ。

*13:楊儀がこのような末路を迎えた事も「馬謖も亡命を企図した(ので処刑された)」という可能性を後押ししている…というのはさすがに都合が良すぎるか? ちなみに演義では「劉禅楊儀を処刑しようとした」というシーンが追加されている。

*14:ちなみに「関羽の子孫」も既に地球上には存在しない(関羽に斬られた龐徳の子である龐会が「父の恨み」と称して一族を殺し尽くした)と言われている。

三国志を正史の視点で・2

前回の続き。

 

2.「泣いて馬謖を斬った」本当の理由は…?

泣いて馬謖を斬る三国志に詳しくない人でも聞いた事があるであろう。「優秀な人であっても私情に駆られる事無く罰する」事を意味するが、実際のところはどうだったのか…?

 

北伐の戦略上の重要拠点である「街亭」。ここを落とされると作戦そのものが瓦解するとあって諸将は歴戦の人物を守備に就かせる事を進言したが、諸葛亮が抜擢したのは日頃から目にかけていた馬謖それまで大した実績がなかった馬謖に「箔」を付けさせたかったのかも知れない(まぁ要は「私情」)。もっとも守備といっても街亭は道が狭く(大軍をもってしても一気に攻め込めない)、「街道を封鎖して敵を通さないようにすればいいだけの『簡単な仕事』」だったはずなのだが…

しかし馬謖はその『簡単な仕事』すら全うできなかった。出発前に諸葛亮からも「街道を封鎖して敵を通すな。まかり間違っても山頂などに陣取ってはならぬ」と念押しされ、更に念押しして経験豊富な王平を副将として随行させたにも関わらず馬謖のアホは街道から離れた山頂に陣取ってしまう王平は忠告を無視されたので手勢だけで街道を押さえて「やれるだけの事をやった」)攻め込んできた魏の張郃*1も訝しがったが、いざ攻めてみるとあっさりと陥落。山頂に陣取っていた主力は水源を断たれた事で戦意喪失、その大半が戦死ないし降伏した。

…とまぁ、このあたりは正史でも演義でも(魏の大将以外は)ほとんど同じ、戦後に馬謖を処刑したのも同じだが、正史にはちょっと気になる文言がある。この戦後処理で

向朗(しょうろう、馬謖と仲が良かった)は馬謖の逃亡を助けた咎で免職となった

馬謖の逃亡」という文言が気になる。他にも

・この時馬謖の参軍として随行していた陳寿の父*2は髠刑(読みは「こんけい」、一言で言えば「剃髪」。当時の中国ではかなり重い刑であった)に処せられている

・一方で寡兵ながら味方の全面崩壊を阻止した王平は昇進に与っている

・この数年後の北伐で兵糧担当の李厳は輸送に失敗して蜀軍を撤退に至らしめている。しかもこの時の李厳は自分の失敗を諸葛亮に押し付けるための「自作自演」をしている*3が、李厳死罪にはならず「官職を剥奪の上追放」で終わっている【*4

もちろん命令に背いて多くの戦死者・降伏者を出した罪は重いが、行為の「悪質さ」でいったら李厳のそれの方が数段悪質である(一歩間違えば数万単位の兵が餓死していたのだから)。それなのに李厳(当初は死刑にするつもりだったようだ)は死刑にならず馬謖だけが死刑、となると馬謖李厳とは比較にならない罪を犯した」可能性がある。…そこでこんな仮説が成り立つかも知れない。

 

馬謖が処刑されたのは「処罰または冷遇を恐れて呉への亡命を企てたから」

 

つまり馬謖の逃亡」は「亡命」を指している、という仮説*5】。彼を推した諸葛亮も当初は降格や追放とかで済ませようとしていたが「亡命を企てた」とあってはさすがに黙っていられなかった(今後真似るやつが必ず出てくる、と思った)のかも知れない。

…勿論仮説にすぎない。一口に「逃亡」といっても解釈はいろいろでき「麓を囲まれ進退窮まった馬謖は兵を見捨てて我先に『逃亡(=職務放棄)』した」かもしれないし、「投獄されていた馬謖『逃亡(=脱獄)』しようとした」かも知れない。一方で演義は蜀(というか諸葛亮)を美化する傾向があるので、それを差し引くと案外本当に「亡命未遂」があったのかも知れない。もしこれが事実だったら馬良*6は地下で何を思ったであろうか…*7

 

ちなみにこの時奮戦した王平諸葛亮の死後も魏延を討ったり対魏防衛戦で活躍しているが、正史によると彼は文字の読み書きがほとんどできず「知っている文字は10字に満たなかった*8という。そのため馬謖王平の事を思いっきり見下していた(ので彼の忠告を聞かずに山頂に陣取って惨敗した)可能性がある【*9】。現代風に喩えるなら

高学歴を鼻にかけて低学歴の人間を見下す(そして独断専行で会社に大損害を与える)ロクデナシのクズ

と言ったところだろうか。…こういう輩は古今東西問わず絶滅しないものらしい。しかし王平読み書きができなくともその発言は道理に適っていたというし、他人の話や読んでもらった書の内容もちゃんと理解できていたというので、馬謖のような所謂「浅学の徒」と比べたらどちらが有益なのかは論ずるまでもあるまい。なお、演義ではこの設定がカットされているが、最近のメディアではこの設定を採用している(それを「馬謖が独断専行に走った理由」としている)事が多い。

 

おまけ.張飛はどうやって曹操軍を退けたのか?

 

長坂の戦い。劉備は江夏に逃れようとするがこの時民も同行してきたため【*10】その行軍は遅々として進まず、直に曹操に追いつかれて散々に蹴散らされる。そんな中張飛は20騎(正史の記述)を率いて長坂橋(後世の人が便宜上そう名付けたものらしい)曹操軍を食い止める、という出来事は正史にも演義にもあるが、正史の記述は少しおかしい。

張飛橋を落として曹操軍を一喝した

演義では「橋の上で曹操軍を退けて」その後橋を落としているが、正史では先に橋を落としている。もし手前曹操軍が迫ってくる側)から橋を落としたら張飛自身が帰れなくなるし、向こう側から落としたとなると曹操軍が川を渡る手段がない」ので『かかってこいや!』と一喝されたところで「どーせーっちゅうねん」という話になる。そういう意味では演義の設定の方がまだ理に適ってはいるが【*11】、6桁に及ぶ敵兵を1人で退けたというのも大分無理がある(「蜀を美化する」演義だから仕方ない面もあるが)ので実際どうだったのかは今一つ想像がつかない。

 

こういう考察ができるあたり、21世紀になってもいろいろな「三国志」が書かれるのも何となく納得ができる。そのうち「独自の解釈による三国志を書く事」がブームになったり…はしないか、さすがに(笑)。

*1:演義では司馬懿が攻めてきているがフィクション(諸葛亮司馬懿を警戒して「策を持って司馬懿の兵権を失わせた」のも同様。ただ正史でも司馬懿は蜀に「出戻り」しようとした孟達の動きを察してこれを討っている)。

*2:演義では「陳式」という名前になっているが、この陳式は230年に死亡している(北伐で「命令違反で損害を出した」ために処刑されている)のでどうやったら「233年生まれ」の陳寿の父親になれるのだろう。正史にも「陳式」は登場するが陳寿の父という記載はなく、それ以外の経歴も史料が少ない。それどころか史料によっては「陳戒」という名前になっている。…もしかしたら「陳式と陳戒は親子」で「その子が陳寿」という可能性もあるが個人的な想像でしかない(笑)。

*3:最初は「悪天候で輸送ができない」と言っておきながら諸葛亮が漢中に帰還すると「輸送は滞りなく行っていた(のに何故撤退されたのか?)」と言い、後主(劉禅)には「撤退は敵をおびき寄せるための策」と説明したという。

*4:この少し前に兵糧輸送の職務怠慢で処刑されそうになった「苟安」は架空の人物。同時期に「句安」(読みはどちらも「こうあん」)という似た名前の人が蜀に仕えていたがそれとは別の人物。

*5:亡命先を呉としたのは「魏に亡命するのだったらわざわざ漢中まで帰る必要がなかった」し、それ以上に「無能っぷりを目の当たりにした魏が彼を重用するとは思えない」という理由による。

*6:馬謖の兄。5人兄弟の四男で(長男としているメディアもあるが999‰四男)、若い頃から眉毛に白髪があったので「白眉」と渾名される。「馬氏の五常(5人兄弟はいずれも字が『○常』であった)、白眉もっとも良し」と称され、「同類の中で最も優れたもの」を指す「白眉」という単語の語源となっている。なお馬良の最期は演義だと「南中討伐の直前に病死」であるが正史では「夷陵の戦いで戦死」と異なっている。

*7:この数年前に関羽を見捨てて呉に逃亡した麋芳の兄麋竺劉備が徐州にいた頃からの古参の人物で、妹が劉備の夫人となっているので言わば「義兄弟」である)は弟の逃亡を聞いて自責の念にかられて病に臥せってしまった(その1年後くらいに死去)。

*8:一説では「自分の名前」と「五常儒教の教え)」、つまり「王」「平」「子」「均」「仁」「義」「礼」「智」「信」だけ。…まるで阪田三吉みたいなエピソードである。

*9:もともと王平は魏の武将だったが、魏でも「同じような理由で」多くの武将に見下されていて、中でも徐晃王平の忠告を無視して惨敗した、という点まで馬謖と似ている。

*10:演義では「民が劉備を慕って」となっているが、正史では「曹操の前科(父の復讐で徐州で攻め込んだ時に無辜の民を大量虐殺している)を恐れて」となっている。

*11:この時張飛の一喝で馬から落ちた(メディアによっては「川に落ちた」)武将「夏侯覇」は張飛の妻の従兄弟。

三国志を正史の視点で・1

GW以降はジグソーパズル以外では三国志の「正史」に関する本を読む時間が多くなった。

今でこそ「正史ベースで書かれた」三国志のメディアも少なくないが、それでも世間に(日本でなく地元中国でも)根付いているのは「演義」の方(のエピソード)だったりする。自分は「正史」と「演義」の違いについてちょっとは知っていたが、詳しく掘り下げたのは今回が初めて。おかげでこれまで知らなかったエピソードも多く知る事ができた。

「正史」ってのは「歴史書なので、基本的に事実を基に記されている…わけだが、これを書いた陳寿という人の環境(蜀に仕えたがその滅亡後に晋に仕え、そこで「三国志」を書いた)「魏(→晋)が正統の王朝である*1というスタイルのせいで何でもかんでもありのままに書く、というわけにもいかず、割愛や簡略化された箇所は多く、中には嘘や脚色もあるかも知れない。また「一人の人間が書いたはず」なのに一つの出来事に対して複数の結果が書かれている事も少なくない【*2】。

そんな事情のせいか期間と人物の多さで考えると文量は少なく(およそ368000字)、三国志の完成から100年以上経った時に時の皇帝(三国志を愛読していたと言われる)が裴松之という人に「詳しい解説書」を書くよう命じ、当時民間に伝わっていた伝承や史料を基に作られたのが裴松之の注」、略して「裴注」(およそ322000字で「正史」に匹敵する文量)。今ではこれも含めて「正史」と呼ばれる事もある。

一方の三国志演義(「演義」とは「正義を演(=述)べる」という意味)は裴注の成立からおよそ1000年後に書かれたもので、史実をベースにしつつも「読んで面白い事」を重視したがためにあまりに荒唐無稽なエピソードが多い*3】。また演義にしか登場しない人物(周倉関索など)、設定が正史と異なる人物(関平など)も多い。そして何より羅貫中が熱烈な諸葛亮信者だったため主役と悪役(正史に「悪役」というのもおかしいが、正史は一応「魏が主役」であるので呉や蜀は悪役とまではいかないが「脇役」である事は間違いない)が完全に入れ替わっている。

 

具体的にどこがどう違うのかはそれをまとめた本なりサイトなりがあるに決まっているからそちらに譲るとして、ここでは演義割愛ないし簡略化された」&「個人的な見解を書けそうな」事について述べたい。

 

1.王允董卓以上のワルだった?

王允(字は子師)と言えば董卓の暴虐を阻止する為呂布を篭絡して董卓を殺させた、ある意味「正義のヒーロー」みたいなイメージがあるが…

史実では王允が策を弄するより早く董卓呂布の間には亀裂が生まれていた。呂布「些事に腹を立てた董卓から戟を投げつけられた(つまり一歩間違えていたら殺されていた)事があり、しかもちょうど時を同じくして呂布董卓の侍女の一人と密通していた*4ので、董卓の事を

「もし密通などがバレたら間違いなく殺される」

と恐れていた。そこを突いた王允に篭絡され董卓誅殺を決意。董卓は討たれ、その立役者の王允は「ヒーロー」のような扱いをされる。ちなみに「演義」だと王允董卓暗殺を企てた曹操に「七星剣」を貸す、というエピソードがあるが正史にはない(そもそも「曹操董卓暗殺を企てた事自体が創作」で、董卓から与えられた官職を辞して郷里に帰っている)。

 

かくして董卓亡き後の政権の座に就いた王允だが、その後の演義とかには見られない)エピソードを見ると彼への評価は変わる。当時中央には「当代随一の博学・人格者」と言われた蔡邕(さいよう、字は伯喈)という人物がいた【*5】。一時期董卓にも仕えていたが、「気に入らない奴は片っ端から虐殺」してきた董卓でさえその名声を憚ってか蔡邕にだけは手を出さずにいた。しかし王允はその蔡邕が董卓の死を悼んだ」というだけの理由で彼を処刑してしまう。群臣たちは処刑を思いとどまるように諫めたが全く聞く耳を持たず「せめて『漢史(当時蔡邕が編纂中だった史書』が完成するまでは」という訴えにも「罪人が書く史書に何の価値があるか!」と吐き捨てた、と言われる(おそらくは「史記」に対する当てつけだと思われる)。

董卓が殺された時、その配下の李傕、郭汜は洛陽方面に遠征中だったが、董卓の死を知って長安に逃げ帰る。王允は結果的に彼らに攻め滅ぼされるわけだが、正史では「李傕、郭汜は王允への降伏を申し出た」王允は(ここでも周囲の意見を無視して)「『董卓の一味だったから』という理由でそれを拒否した」とある。進退窮まった彼らだが、当時配下にいた賈詡の進言で長安を攻めるとこれがあっけなく陥落、王允および一族は族滅され呂布は敗走【*6】。

 

王允の場合「悪い意味での潔癖症というのが事実に近く(正史によると「若い頃からそういう性格だった」そうで、敵も多く、殺されかけた事も一度や二度ではなかったようだ)、「ワル」とは少し違うが、「他人の意見を聞かなかった」のは董卓と同じだし、「自己の信念に基づいて人を殺す」というのはある意味「自己の欲望に基づいて人を殺す董卓」以上に質が悪い。若い頃は「王佐の才」と評されたらしいが、そう評した人(高名な人だったらしい)は一体彼のどこを見てそう思ったのだろうか…*7

なお、王允は「相当な高齢の人物」として描かれる事が多い(例えば横山三国志とかでは「髪も髭も真っ白な老人」になっている)が、董卓を討った時の年齢(=享年、当時の中国は数え年)は56歳。曹操(同66)劉備(同63)より若くに死んでいるのに、曹操劉備(の最期)の方が若く見える事が多い。諸葛亮(同54)の最期と比べたら親子くらいに見た目に差がある。

 

…長くなったので続きは次回。

*1:実態はともかく表面上は魏は漢から「禅譲」されている(ので正統の王朝)。魏→晋も同様。

*2:例えばかの「赤壁の戦い」についての記述。…書くと長くなるのでここでは割愛。

*3:「当時の中国にはなかったもの」も多く登場しており、関羽の「青龍偃月刀」、張飛の「蛇矛」、呂布の「方天画戟」もその1つ。…(諸葛亮が南中制圧で使った)「地雷」や「虎戦車」? んなもんあるわけねーだろ(笑)。

*4:演義」でこの時に活躍する女性「貂蝉」はこの侍女をベースに作り上げられた(と思われる)架空の人物。それ故か彼女の設定はメディアによって千差万別(「もともと醜女だった顔を墓から掘り起こした美女の顔と挿げ替えた」「実は呂布の妹」なんて素っ頓狂な設定もあるくらい)、その最期も「董卓の死を見届けて自害(吉川三国志と横山三国志はこの最期なのである意味「日本人にもっとも馴染んでいる最期」と言える)」「下邳で呂布と一緒に処刑される」「曹操の側室になった」「(曹操に降っていた頃の)関羽が妻とした」「関羽に斬られた」など様々。…もっとも「そもそも架空の人物」なので設定や最期がどうであっても意味はほとんどないのだけど(笑)。

*5:マニアックな人には「蔡文姫の父」と言った方が分かりやすいかも知れない。

*6:この時甥にあたる王淩(おうりょう)という人物は命からがら難を逃れている。その後魏に仕えるが、この60年くらい後に司馬氏の専横に耐えかねて叛乱を起こしている(この時担ぎ出された「曹彪」という人物は曹丕の弟でその当時  曹丕だけでなく子の曹叡も没していた  で50代後半)。

*7:同時代に「王佐の才」と評された人物として荀彧がいるが、彼と比べるとその功績や能力は雲泥の差と言える。

誰もができる事が 僕には難しい

前回の記事の「ジグソーパズル」に収録されている楽曲の中にそんな歌詞がある。

実際世の中には「誰もができる」ように感じる事が何故かできない(苦手)、という事はいくらでも見かける。

自分の場合だとM先生のコメントにあるような「JPに苦情を申し立てる」というような事がその1つに当てはまる。

…この事について書こうとするととても長くなる上に「非常に面倒な事」が起きそうなので【*1】簡単に書くと

自分の脳みそは民主主義的な考え方に適合していない

とでもなるだろうか。…もっとも自分でなくてもそういう人はいるだろうし、そもそもそういう人でないと「一代で大企業を作り上げる」なんて事は絶対できないだろう。

 

…別に民主制そのものを否定したいわけではなく、むしろ民主制がないとプーチンやクソの穴*2のような人間の暴走を止められないように思う。仮に前述のような君主制(便宜上「民主制」の対義語。ぶっちゃけ「独裁政治」と同義)君主制でもって覆しても九分九厘「地球上(歴史上)にプーチンやクソの穴のような人間が1人増えるだけ」という結果に終わる、という程度の予測は自分でもできる(日本でクーデターが起きて軍事政権が誕生しても同じ事だろう)。ただ自分は「そっち方面では役に立てない」という自覚があるので、

そういう事はそういう事が得意な人に任せるのが一番

だと思っている。ちなみにかの蒋介石は日本軍の侵攻に対し「有力的出力、有銭的出銭(力のある人は力を提供せよ、金のある人は金を提供せよ)、つまり「国民それぞれの最も得意な分野で抗戦せよ」と鼓舞したと言われる。…同じ中国人でもここまで違うものなのかねぇ。

 

日本人(民主国家で暮らす人)は「民主主義的な思想」を持ち合わせていないといけない

みたいに考える人を時折見かけるが【*3】、そういう考えは「思想や価値観の強制」「自分と異なる価値観に対する不寛容」であり、差別やハラスメント、ひいては紛争や戦争が起きる要因でしかない、それこそ(言論や思想を統制している)プーチンやクソの穴なんかとやってる事がほとんど変わらない」と断罪してもいい。昨今問題となっているスクールカーストなる代物も現代の教育方針が結果として「人気」というバロメータでしか人間の優劣を評価できない人間を大量生産しているからああいった悍ましいものが生まれるわけだし、その結果俗に「バカッター」などと呼ばれる愚行蛮行を平然と行う輩が世間に蔓延る、という見方は決して間違ったものではあるまい。

 

…これ以上はやめておこう。引き返せるうちにやめないとどんどん沼にハマりそうだし、そもそも「政治的な話を個人のSNS上でする」ということ自体が何か違うような気がするし。

*1:実際に「下書き」したが、途中まで書いた(3000字近くになった)時点で「異議・抗議を騒ぎ立てる人が絶対出てくるな…」と思ったので書くのをやめた。

*2:この呼称はもっと広まるかと思っていたが結局ほとんど広まらなかったなぁ…

*3:正直「当時は」M先生のコメントもそんな風に見えた。本人の意図するところは別として。